月夜に恋して 8
ガラガラと音を立て炎を吹き上げ崩れ落ちる船の上で、はぐらりとよろめいた。
煙が目に入り視界が霞む。
汗で滑り落ちそうな武器を持ち直したのは何度目か。
逃げなければならないとはわかっていた。
わかっていたが、退路がなかった。
いっそのこと水に飛び込んだ方が無事で済むのではなかろうか。
そう考えもしたが、は泳ぎに自信がなかった。
もっと言えば、泳いだことがなかった。
こんなことになるのであれば泳法も身につけておくべきだった。
およそ味方にはなってくれそうもない真っ黒な水をちらりと見つめ、は武器を構え直した。
水中から荒い息を吐きながらも上陸してくる兵たちを見つけたからだった。
「・・・・・・」
「ほんとにいやがった・・・・・・」
「・・・・・・」
「おい、早く上がって来い! これで俺たち生き延びられるぞ!」
水中に未だ漂っている仲間に呼びかけた男は、卑しげな笑いを浮かべながらに近付いた。
曹操軍に組み込まれたばかりの荊州兵だろうか。
見た限りでは、助けに来たわけではなさそうだ。
彼らは公主を手に孫権軍に下ろうとしている敵だろう。
「間近で見ると美人だってよくわかるな。そりゃ将軍方も欲しがるわけだ!」
「・・・父に、曹操様に背くおつもりですか」
「こうなっちゃおしまいだって公主様もおわかりでしょう。俺らは沈む船にはいつまでも乗っていたくはないんですよ」
だから大人しく土産物になって下さい。
そう叫び腕を取ろうとした男を、は容赦なく突き飛ばした。
ふざけるな、誰が手土産になどなるものか。
突き飛ばされたことに逆上した男が、仲間たちに向かって呼びかけた。
どうやら主の娘という思いはないらしい。
それならばこちらも戦うまでのこと。
は襲い掛かってきた剣を受け止め弾き返すと、男たちをひたと見据え言い放った。
「わたくしは孫権殿とはお会いしたことも、言葉を交わしたこともございません。
ですが・・・、人の上に立ちこのように精強な軍を束ねておられる方が、あなたたちのような目先の利のみしか考えない者を重用されるとは思いません」
このような下衆が孫権軍に入り、何の巡り会わせか凌統の配下になってしまったら。
己が利しか考えない輩のせいで愛する人が命の危機に晒されてしまうのであれば、ここで手を下すことも厭わなかった。
どこにいても害をもたらし輪を乱す者は、軍には必要なかった。
「説教なんざ要らないね、あんたを欲しがる奴もいるんだよ!」
「それはどこのどいつだい?」
の目の前を炎ではない赤い何かが横切った。
操る武器が空気を切り裂く音と、倒れ絶命した男が遺した悲鳴しか聞こえない。
この場に乱入してきたのは誰だ。
が呆気に取られている隙を突き、辛うじて息があった男の1人がを背後から羽交い絞めにした。
「へへ、旦那見つけましたぜ・・・、旦那が探してた姫君!」
「・・・頼んだつもりはないんだけどね」
「こう見えても気が利く奴でして。へへ・・・」
「やっぱあんた、話聞いた後に殺しとくべきだった。・・・に気安く触んな」
羽交い絞めにしていた男の体から力が抜ける。
ずるずると床に転がった彼は、つい今しがた息の根を止められたのだろう。
は先程まで対峙していた男たちがことごとく倒れ伏していることを確認し、乱入者を見上げた。
すらりとした体と真紅の戦袍。手に持つ得物は多くの兵の血を吸った三節棍。
長髪を後ろで1つに結び仁王立ちしている青年に、は大いに見覚えがあった。
驚きかそれとも恐怖か、言葉が全く出てこない。
男たちとの会話の意味もわからない。
ただ呆然と青年を見上げていると、不意に彼はにっと笑いかけた。
「俺のこと覚えてる?」
「・・・・・・はい」
「一度だってを忘れたことはなかった。こうやってまた逢えて嬉しい」
「そう、ですか・・・」
何が起こるのかわからないのが乱世であり、戦場だ。
彼を会うこともあるだろう、会って話がしたいと思っていたのは事実だ。
しかし、いざ目の前にすると何をすればいいのかわからなかった。
とりあえず油断をしてはならないだろう。
そっと武器を手繰り寄せようとしたの腕を、凌統は握り締めた。
「まで俺に殺されたいって言うんじゃないだろうね」
「・・・先程のことは感謝しております。けれどここは戦場、敵に武器を向けるのは当然のこと」
「どこにの味方がいるんだっての。味方だった奴にも裏切られて投降の土産にされようとしてたのに、今日は諦めなよ」
「・・・・・・」
凌統の言うとおりだった。
ここまで味方と出会ったのはわずかだった。
このまま死んでしまうのだろうと覚悟もしていた。
覚悟を揺らがせたのは凌統だった。
なぜここにと、は俯いたまま呟いた。
「将ならば、大将の首を取ることを第一に考えるはず。・・・なぜあなたも、あの方も、わたくしばかりを・・・」
「に逢いたかったからだよ。色々訊きたい事あったけどやっぱ無理だ、一緒に来てくれ」
「・・・・・・嫌です。敵の辱めを受けるくらいであれば、わたくしはここで散ります」
「・・・、俺に助けられるのは死ぬことよりも辛いのか? 俺が今目の前にいるのは、にとってはどうしようもない苦痛なのか?」
「・・・わたくしは、助けられたとは思っていません。離して下さい、邪魔をなさるのであれば凌統殿であろうと手加減は致しません」
は凌統の手を強引に振り解くと武器を構えた。
会ったとしても話をするなど、できるわけがなかったのだ。
何という甘美な夢を見ていたというのだろう。
戦場へ連れて行ってくれと駄々をこねていた自分が急に幼く思えてきた。
あんな事を言わなければ奇妙な再会を果たすこともなく、愛しいと思う気持ちを封じ込めるだけで良かったのに。
は悲しげな表情を浮かべている凌統を見つめた。
また悲しい思いをさせてしまった。悲しくさせてしまうような女は、彼には相応しくない。
「、俺はずっとを愛してるのに、どうして・・・」
「・・・わたくしも、」
体がぐらりと吸い込まれるように後ろに倒れ、目の前に凌統の顔が悲しみから焦りに変わる。
全身が熱くて溶けてしまいそうだ。
真っ二つに割れた床の間、地獄の炎のように燃え盛る船底へ落下するに、凌統は必死に手を伸ばした。
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