揺蕩る月は岸に縁る     前







 たとえこの先、あなたがあなたでなくなったとしても。
私はずっと、あなたを愛しています。















 城内を歩いていると、様々なことがある。
故郷の城下すらろくに知らない世間知らずが思うことなので、感覚が庶民とずれているだけなのかもしれない。
許昌から遥か離れた地に住まう人々が見せる日常の様子は何もかも新鮮で、時間がいくらあっても見足りない。
揚州の地までやって来たのは誰にも言えない一大決心を叶えるためだったが、たとえ願いが叶わずとも外へ出られて良かったと思う。
例えば、今しがた老婆から手渡された籠とよくしなる枝は何だろう。
川で獲れるからよろしく頼むねえと何かを依頼されたが、ただの枝で何をすればいいのかまるで見当がつかない。
このままでは、水軍の調練と編成で離れていた護衛の張遼が戻ってきてしまう。
戦場を駆ける武将たちは皆、すこぶる目が良いらしい。
わずかに生まれた隙を突いて逃げ出したつもりが、あっという間に捕捉される。
いつだったかは鍛練場に先回りされてもいた。
単純な考えで動いているつもりはないのだが、いつぞやから変わり者呼ばわりされるようになってしまった公主の行動は張遼にとっては取るに足りない些細な事案のようだ。
正直、まったく面白くない。
黙って敵陣に消えるようなことはしないので、もう少し主の娘を信じてほしい。
なによりも、こちらのことにいちいち気を割いてほしくない。
は城を出た先にある花畑の岩陰に腰を下ろすと、ふうと息を吐いた。
老婆はこちらの正体を知らずに籠と枝を寄越してきたのだろう。
川はそこらじゅうに流れているが、何を求めているのかはわからない。
だが、頼まれた以上は結果を出して老婆に喜んでほしい。
公主として宮殿の奥であれやこれやと面倒を見られ続けているこの身が、他人のために何かを為せることはあまりに少ない。
異母姉たちのように華やかさで周囲を楽しませることもできず、それどころか父や兄、夏侯惇らを呆れさせ張遼には叱られるようなお転婆ぷりだ。
戦場においては足手まといにならないようにと早朝鍛練に励んでいたのに、張遼に見咎められてからは更に人目を忍んで城外で剣を振るうしかなくなった。
そのおかげで心落ち着く花畑を見つけることができたのだが、今度は残念なことに花の名前を知らない。
見たことがないからわからないのだと開き直ろうとしたが、ここでも気付かざるを得なかった自らの世間知らずさには自分でも呆れてしまった。
変わり者でもいいが、許昌に戻ったらせめてもう少し勉強をしようと思う。
義母は花にも詳しそうだ。
兄嫁も喜んで教えてくれるだろう。
他に風雅なことに詳しく面識のある人物といえば荀彧くらいしか思い当たらないが、彼は何かと忙しそうで、最近は険しい顔をしていることが多いとも聞く。
その理由には心当たりがあるが、それは当事者の範囲に少しだけ足を踏み入れてしまっているこちらが言うべきことではない。
政治の話にはとんと興味がないが、昔のようにいい関係であってほしいなとは心の底から思っている。





「・・・とりあえず川へ。それから・・・」
「失礼、そこにどなたか? この辺りには狼が出ると聞きます。すぐにこちらへ・・・」
「まあ荀彧殿。良かった、わたくし「様、どうかそのままで」





 ひゅんひゅんと耳元で刃が風を裂く音が聞こえたと思えば、背後できゃうんと獣の悲鳴が上がる。
物思いに耽っていて、狼が寄ってきていることにまったく気付いていなかった。
戦場ではないとはいえ気を抜きすぎだ。
主の娘に向け迷うことなく得物を投擲した荀彧の冷静沈着さを見習わねば。
は珍しく小走りで駆け寄ってくる荀彧の焦った顔を見上げ、ほんの少し罪悪感を抱いた。
父娘揃って彼に不快な思いをさせてばかりだ。





様、お怪我はございませんか? どこか痛んだりはしていませんか?」
「ええ、まったく。狼がこれほど近くにいたなんて気が付きませんでした。ありがとうございます荀彧殿」
「御身がご無事であれば良いのです。後方とはいえ異郷の地、お一人で出歩かれるのは危険です。城へ戻りましょう」
「いいえ、まだ少し・・・」
様」





 素直に頷かず、動こうともしないに荀彧は眉を潜めた。
実はどこか痛めていて、動くのも辛いのだろうか。
彼女の母も生死に係わってくるほどに頑固だったが、も似てしまったのかもしれない。
しかし、そうだとすれば尚更今すぐ城に戻るべきだ。
手元にあるのは常用の傷薬程度で、大層な怪我は癒せない。
荀彧は、がしきりに背中へ回した手を気にしていることに気が付いた。
よくよく見れば、背中からちらちらと釣竿のようなものが見え隠れしている。
ひょっとして、針が手に刺さったまま抜けなくなってしまったのではないだろうか。
そうだとすれば一大事だ、わずかな傷口から症状が悪化した人は何人も見てきた。
荀彧はの腕を取ると、ぐいと引き寄せた。
ほっそりとした白い手には一滴の血も浮かんでいない。
何かがおかしい、まだ何か隠しているのか。
荀彧はあのうと控えめに発せられたの声に、はっと我に返った。
が不安げな顔で見上げている。
荀彧は慌てて手を離すと、の前に深々と頭を下げた。




「申し訳ございません、どうかお許しを」
「いいえ、わたくしこそ心配をさせてしまい申し訳ありませんでした。ですからどうか、頭を上げていただけませんか」
「ですが・・・」
「実はわたくし、荀彧殿とお会いできたらいいなとここで考えていたのです。こうして本当にいらして下さるなんてさすが軍師、よもやわたくしの企みも見越しておられたのでは?」
「企み・・・?」




 訊き返した途端、がぱあと表情を明るくする。
よくぞ聞いてくれたとでも言いたげなきらきらと輝いた眼と口元に、思わずこちらの方も緩みかける。
本当に愛らしい姫君だ、曹操や曹丕が可愛がるのもよくわかる。
はふふふと笑った後、ふと思い出したように真顔に戻った。





「荀彧殿、お時間はございますか?」
「ええ。それで、様はいったいどのような企みを?」
「これとこれで、川で獲りもの、です。城内で民に頼まれたのですが、わたくしにはただの籠と枝にしか見えず・・・。
 戦を前に浮き足立つ住民たちの人心掌握も将の務めと聞いたことがございます。荀彧殿、お力を貸してはいただけませんか」





 ずいと突き出された釣竿には、針もついていない。
許昌の外へ出ることがないには、『釣り』という知識そのものがないのだろう。
どんな経緯で依頼を受けることになったのかは問い質す必要があるが、それは今でなくともいい。
推察するに、は平服で城下へ抜け出したのだろう。
いかにも彼女がやりそうな手口だ、過去に許昌でその策には一度嵌っているので手に取るようにわかる。





様、私が尋ねると踏んで罠を張られましたね。これは釣り道具、魚が釣れるのです」
「まあ、このようなもので魚を。やはり荀彧殿がいらして下さって本当にようございました。張遼殿には内緒にして下さいませね」





 あの方に知れれば、今度こそ館に閉じ込められかねないのです。
そうぼそりと呟いたに、荀彧は苦笑を浮かべた。







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