揺蕩る月は岸に縁る     後







 油断をしていたつもりは微塵もない。
上手く事が進みすぎているとは思ったが、上首尾を疑いはしない。
大船団が燃えた後のことは、正直よく思い出せない。
散り散りになった敗残兵をまとめ撤退しながら孫・劉連合軍の猛追撃を躱し、気付けば曹操たち本隊との合流を果たしていた。
だから別の部隊がどのような戦いを繰り広げていたのかは知る由もなかった。
失った将兵を数え再編成するのもこれからの話だ。
これからの課題が膨大すぎて、許昌に帰還の後は久々に徹夜作業になりそうな予感がする。
敗戦とはいえ、戦が終わったばかりで少々気が昂ぶっていた。
だから忘れていたのだ。
無事が当然だと思っていたから、尋ね確認する必要すらないと高を括っていたのかもしれない。
あるいは、無意識のうちに父君に遠慮をしていたのか。
公主と落ち着いた話ができるようになるのはしばらく先だなくらいしか、せいぜい考えていなかったのだ。





「では許昌へ戻るか。各々、それぞれの才智で軍の立て直しを進めよ」
「父よ、本当によろしいのか」
「子桓、お主も存分に捜したのであればわかっておろう、はもう戻れん」
様・・・? 殿、それはいったいどのような。様は殿や曹丕殿とご一緒ではないのですか!?」
「公主は俺も孟徳も張遼も捜したが見つからん。つまりそういうことだ。妙に大人しいとは思ったが、知らなかったのか」





 何も聞こえない。
戻れないという意味はわかるが、わかりたくない。
なぜ曹操たちが淡々としているのか理解できない。
娘を1人亡くしているのに、何も感じないのだろうか。
数多の喪った兵のうちの1人としてしか数えていないのではないだろうか。
あまりに酷い、が不憫すぎる。
退却の指示のため曹丕と夏侯惇が去ったのを見届け2人きりになったことを確認すると、荀彧は曹操に詰め寄った。





「まことに公主を見捨てなさるおつもりですか」
「あれも武人の娘。戦場に出た以上は覚悟もできておったはずだ。娘ひとりのために将兵を危険に晒すことができようか」
様は殿の御息女です。父であるあなたがなぜそうも冷静でいるのです。これでは様があまりにも・・・!」
「わしの娘であるなら、この判断は父らしいとでも思うであろうな。嘆き悲しみ戻るのであれば、いくらでも嘆こう。しかし、そうしたところで亡くしたものは戻ることはない。
 であれば、喪った者たちの思いを胸に歩むのがわしの覇道と心得よ」
「・・・・・・」
「あれはお主に懐いておったゆえ、殊更気にかけておったようだな。によく尽くしてくれた。わしに似て強情な娘だっただろうに」
「・・・強情なのは母親譲りでしょう」
「賢く、物わかりも良くけれども頑固なのは自分に似たとでも言うつもりか」
「いいえ。・・・公主は、自らは曹だと仰っておいででした。私も兵を退きます、申し訳ございませんでした」





 悲しませるようなことはしないと約束した。
対岸に愛する人がいるのであれば、せめて彼に救われていてほしい。
でなくなっても、そうでなくなることで幸せになることができるのならば名も身分もすべて捨ててしまえばいい。
安寧を約束された決められた婚姻よりも、先行きがわからなくとも愛する人と共にいる方がきっとは輝いている。
どのようなかたちであっても、生きていてくれればそれでいい。
これから先何かを教えてやることはできないが、彼女なら大丈夫だ。
あんなに可愛い子なのだ、どこへ行っても誰からも愛されるに決まっている。
荀彧は二度と渡ることはないであろう長江を見つめた。
楽しかった思い出が終わったような気がした。


















































 風の噂を家主が運んできた。
出所の確かな北からの便りという。
極めて薄い血の繋がりを信じているのか、あるいはそれも何かの策なのか、陸遜は案外細かに情勢を話してくれる。
気を遣うということを知らないだけなのかもしれないが、軍師を相手に考えを巡らすのは多大な労力を使うので深く考えることはやめている。





「え・・・? 亡くなられた?」
「ええ、病を得たとのことですが、実際はどうなのでしょうね。曹操とは魏公就任を巡り長く対立していたとも聞きますし、あなたの父上ならやりかねないでしょう?」





 揉めているのは知っていた。
彼の憂いた顔も険しい顔も、すべての原因がそこにあるとは政治に疎い自分でもわかっていた。
わかっていて、それでも父を頼むと言ってしまった。
まさかあれが今生の別れになるとは思わずに、何気なく願いを口にしてしまっていた。
もちろん、たかが1人の姫君の言葉でどうにかなるような男ではない。
彼の中には既に揺らぐことのない信念があり、こちらはそれを理解していた上で願ったのだ。
殺したとは思わないが、追い詰められてしまった末に得た病だったのかもしれない。
真実はわからないが、彼の死はに想像以上に大きな衝撃を与えていた。





「その様子だと面識があったようですね。王佐の才、我が子房とまで呼ばれた非常に優秀な方だったと聞いています。敵でなければぜひ、私もお会いしてみたかった」





 ようやく気を利かせるつもりになったのか、それきり何も尋ねなくなった陸遜を残し屋敷を出る。
あの人もまた、公主は死んだと思ったまま逝ってしまったのだろう。
今頃はあの世で必死に自分を探しているかもしれない。
まだしばらくは見つけられないだろうから、いなかったという事実に安堵していてほしい。
対岸にいた恋い慕う人に拾われてしまったのだから、人生は何が起こるのかわかったものではない。
は待ち合わせの木の下で凌統と合流すると、並んで川辺を歩き始めた。





、何かあった? また軍師さんに苛められた?」
「いいえ。少し悲しいことがあっただけです。それでその方のことを思い出していました」
「そっか」
「・・・公績殿、わたくし今日は釣りがしとうございます」
「へえ、いいね! ていうか釣りなんてできるんだ」




 さすがは長江と共に暮らしているだけはあり、凌統の手際は鮮やかだ。
あっという間に拵えられた釣り道具は、かつて見たそれとはまるで違うように見える。
ああ、あの人は決してそれが得意ではなかったのに付き合ってくれたのだ。
よく考えなくともそうだ。
彼もまた名門で生まれ育ち、衣食住も従者たちに任せていれば良かった人だったのに。
そうだというのにこちらは本当に何も知らず考えなしで、荀彧ならば何でも知っているとばかりにわがままを言って甘えていた。
あの人は最初から最後まで、ずっとずっと優しかったのだ。
優しすぎたのだ。





のそれ、誰かから教わった?」
「そうですが・・・」
「いいや、変わった形だなって。でもそれだとうっかり手を傷つけたりしないんだよ。それ教えた奴、のことよっぽど大切にしてたんだろな」





 雨が降りそうな雲行きではなかったから、どうやら天気雨のようだ。
悲しいことをあえて訊くような野暮な性格はしていない。
泣きたい時は泣いた方がいい。
そうしていつか落ち着いた時、話したくなったら話せばいい。
もちろん話さないままでも構わない、彼女にはこの国の人々には告げにくい悲しさがたくさんあるのだから。
凌統は釣り糸を垂らしたまま、もう二度と出会えない誰かを偲んでいるの肩をそっと抱き寄せた。








あとがき
水面の月は沈まないけれど、燃えて揺らいでしまったそれは対岸で掬い救われる。
書いている人は、曹操の娘だと信じています。





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