親睦のススメ ~孫尚香編~
孫家には武に秀でた姫君がいる。
あなたとはあまり似ていない方ですがと前置きされた上で陸遜から聞かされたは、まだ見ぬ孫呉の姫君を凛々しく強い女性だと勝手に位置づけた。
それにしても、さすがは尚武の気風を良しとする孫一族である。
周瑜の妻にして美人姉妹としても名高い二喬の妹、小喬も戦場で果敢に武を奮うと聞いたし、女性が戦場へ赴くことを当然のように受け止めているかの国家と母国は、
その認識に大きな隔たりがあるように感じた。
もしかしなくても自分は、戦場ヘ出たいとわがままを言った代償に、呉では考えられないくらい重いものを求められたのではないか。
そう思ってしまうほど、凌統たちが暮らしているこの国はには自由に見えた。
「公績殿は孫呉の姫君にお会いしたことはございますか?」
「戦場では結構見るよ。とはちょっと毛色が違うけど、感じのいい方だよ」
「弓腰姫と称される方だとお聞きしました。きっとわたくしと違い、凛々しくてお強い方なのでしょう」
「も充分可愛いけど。それよりも、なんでがこんなとこいんの?」
「やはり鍛錬のお邪魔をしてしまったでしょうか・・・」
まさかと呟くと、凌統は武器を操る手を止めの元へ歩み寄った。
気を利かせて用意してくれたのか、差し出された手ぬぐいを受け取る。
に逢えるのは嬉しいが、練習用の剣が彼女の横に置いてあるのはいただけない。
何しにきたのと尋ねると、予想通りの返答が返ってきた。
「わたくしも励まねばなりません」
「・・・駄目って言って大人しくするわけない、か」
「やめろとは仰らないのですか?」
「教えてる間はと一緒にいられるし」
「・・・きちんと教えていただけますか?」
「お望みとあれば朝から晩まで泊まり込みで、ぜーんぶ相手してあげようか」
の顔が見る見るうちに紅くなり、下を向く。
恥ずかしくなって顔が上げられなくなったのだろう、名前を呼んでも決して顔を見せない。
純粋な子なのだからもう少し手加減してやるべきだとわかっていても、ついつい本音が飛び出してしまう。
手が届く場所に愛する娘がいるという現実を前に、我慢できないのだ。
口にしているだけで手を出さず、抱き締めもしない自分の理性を褒めてほしいくらいである。
「教えはするけど、姫様みたいに戦場で戦ってほしいわけじゃないってことはわかってくれるかい? まあ、は案外戦えるからそれなりに戦力にはなるだろうけど」
「はい。公績殿、よろしくお願いします」
戦場には出ないという条件のもと武芸を磨き、挙句強行出陣を果たすのはの定石である。
鍛錬は朝から行うに限る。
特に江南の日中は暑いため、比較的涼やかな朝のうちに汗を流しておきたい。
許昌で父や武将たちに隠れて鍛錬を繰り返していた頃と同じように朝早く起きだし、陸遜の朝食を整え外へ出かける。
自分が料理ができると知るやあなたが作るのが当たり前ですと言われ、毎朝の朝食と時々の夕食当番を任されるようになった。
肉まんだけは下手な店のそれよりも美味しいらしい。
褒められているのか貶されているのかわかったものではない。
広々とした鍛錬場を1人で使うのは心地良いものだ。
そう思い毎朝元気に早起きしていただったが、今日は途中で同じ目的を抱く人物と出くわした。
弓を小脇に抱えてことりと首を傾げている、整った容姿をした同じ年頃の娘。
女性兵かとも思ったが身なりはいい。
それにしても、羨ましくなるほどに均整の取れた肢体だ。
適度な運動を続ければ、彼女のようにメリハリのある体になるのだろうか。
剣を両手に抱えたままぼんやりと娘を見つめていたは、不意に手を握られ我に返った。
「あの・・・」
「あなたね! 凌統が連れ帰ってきたお姫様!」
「え・・・?」
「兄様から聞いてたとおり! 可愛くて品が良くて、私とは全然違う感じの女の子!」
孫尚香ですと名乗られ、は慌てて居ずまいを正した。
握られたままの手はどうすることもできないので、手はそのままに頭を下げる。
名前を告げると早速と呼ばれる。
畏まらなくてもいいからと言われ、でもと口篭ると、今度は手を引かれ鍛錬場内へと連れて行かれた。
なるほど、確かに自分とはまるきり違う姫君だ。
姉たちの中にもこのような女性はいなかった。
「兄様から話を聞いた時から、早く会ってみたいなって思ってたの。どう、凌統についてきて良かった? ここの暮らしには慣れた?」
「はい。皆様にはとてもよくしていただいております」
「自分の部屋を灰にしちゃったってほんと?」
「・・・・・・陸遜殿ですか」
「ええ。すごいわよね、あなたって見かけによらず情熱的なのね!」
「灰にはなっておりません。あの、その噂は誤りなのです」
「そうなの? でも楽しいじゃない、それにここの人たちはそういう事やる人が好きだから、そっちの方が都合がいいわよ」
ちょうど良かったわねと笑顔で言われると、頷かざるを得ない。
明るくて楽しくて表情がくるくるとよく変わる尚香に、は好感を抱いた。
彼女を嫌っている人はいないだろう、話しているととても心が弾む。
わたくしもあなたに会えて嬉しいと伝えたくて口を開きかけるが、尚香の声に遮られる。
今度は何だろうと思っていると、手合わせしましょと告げられた。
「あなたは剣を遣うのね。ねぇ、弓にしない? 凌統の心を狙い撃ち!とか」
「いえ、わたくしはこれで・・・」
「あぁそっか! はもう彼の心を射止めてるから、今ここにいるのよね!」
「いえ、そういうわけでも・・・」
そもそも弓と剣でどう手合わせするというのだろう。
間合いの取り方などを考えあぐねていると、いくわよーと元気な声が聞こえる。
咄嗟に身構えた先には、矢をつがえている尚香がいる。
まずい、本気で手合わせする気だ。
飛来した、練習用とはいえ当たればそれなりに痛そうな矢を叩き落す。
やるわねと嬉しげに声を上げ、次々に矢を放ってくる尚香をは制止しようとした。
したのだが、止まない矢の襲来から見て、声は届いていないのだろう。
これはこれで鍛錬にはなるが、それでもあまりに一方的すぎる。
尚香に一太刀浴びせることもできやしない。
「とどめっ!」
「え・・・!?」
一気に間合いを詰められ、ぐいっと腕をつかまれる。
さすがにこれはいけない気がする、確実にどこかを痛める。
細い体のどこに人を投げ飛ばす力があるのだろう。
できることならば自分もこの術を習いたい。
誰に教わろうか。
体格を考えると尚香や陸遜から習うのが良さそうだが、彼女に教わるのは申し訳ない。
陸遜は気が進まないし、そもそも即答で断られるだろう。
やはり凌統に頼むべきだろうか。
いい顔はしてくれないだろうが、なんだかんだで相手をしてくれるかもしれない。
地面を転がりながらぼんやりと考えていると、急に辺りが騒がしくなってきた。
大丈夫なのとぐらぐら身体を揺さぶってくる尚香には、少しだけ笑いかける。
そしてもう一人、顔を覗き込んできた人物には瞠目した。
「姫様はよりもどう考えても強いんだから、無茶は止めてくれるかい?」
「私びっくりしちゃった、急に何も喋らなくなっちゃうんだもん。ごめんなさい、怪我はない?」
「はい、大丈夫です。私の方こそ、手合わせの相手にもならなかったようで・・・。まだまだ精進せねばなりません」
「そうね、その意気よ! 凌統、あなた素敵な子を見つけたのね」
「そう言っていただけると嬉しいんですがね」
「伊達に浮名を流してたわけじゃなかったのね!」
「いやあの、そういうことの前で言うのは・・・」
「でも駄目よ、今度からそういうとこ行っちゃ。ねぇ?」
不意に話を振られたが、生憎と何の話だか途中からよくわからなくなっていた。
何の話でしょうかと凌統に尋ねると、知らなくてもいいと引きつった笑みでもって返される。
大した事ではないのだろう、きっと。
また明日と告げ宮殿へと戻っていく尚香を見送ると、凌統は改めての方へと振り向いた。
少し怒っているように見える。
やはり勝手をしたことがいけなかったのか。
どうしたものかと考え込んでいると、ぽんと頭に手を置かれた。
「姫様に合わせてちゃ絶対ついてけないから、ほどほどにすること」
「・・・はい。あの、公績殿に相談があるのですが・・・」
「何だい? ああ、剣の前に護身術をもうちょっと真面目に教えときたいんだけど、俺としては」
「なぜおわかりに・・・?」
「の頼みのそれだったんだ。なーんか危なっかしいんだよね・・・・・・。知ってて損はないし、日常でも使えるしね」
「ありがとうございます」
一度屋敷に戻ろうかと言われ、歩き出した凌統についていく。
こちらから言わずともわかってくれるとは、さすが凌統だ。
一応護身術はあちらにいた頃に夏侯惇から教わっていたが、自分のものとしていなかったのだろう。
それほどまでに危険だったのかと不安にもなるが、改めて凌統に教われば、もうそのように思われることもなくなるだろう。
友人もできたし、ここでの生活もますます良くなってきた。
「そういえば公績殿、先程尚香殿から伺ったのですが・・・・・・」
「ん? ・・・もしかしてさっきのあれ? あれはほんと、昔の話でと知り合ってからは大人しくしてるからさ!」
「え・・・? ・・・あの、まさか公績殿もわたくしが部屋を灰にしたと信じておられるのかと・・・」
「ああそっち・・・。違うのかい? 軍師さんにかなり目つけられてるみたいだから、気を付けなよ」
「・・・・・・もう、いいです・・・・・・。・・・公績殿は時々酷いことを仰います」
「え、ちょっと!?」
ここまできたらもう、いちいち否定をしていく気も起きない。
は慌てふためいている凌統の脇をすり抜け、振り返ることなく彼を置き去りにしたのだった。
あとがき
エンパで作った公主様の武器は、尚香さんと同じ殺傷力が非常に高い弓で凌統の心も心臓も狙い撃ちしてます。
こっちじゃ槍か剣かそれ以外の武器にするかで未だに考え中。なんかこう、武器武器っとしたものがいいです。
全然性格違う2人ですが、たぶんものすごく仲良くなれそうです。
公主様の間違った噂はどこまでも続きます。
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