Please take my hand, princess! 4
やられた。
あの女、本当におそらくは戦場へ出かけてしまった。
留守番もできないわがままだとは思わなかった。
陸遜は人っ子一人いないの部屋を見つめ、頭が痛くなった。
曹操軍と出くわし戦うことになって一番傷つくのはだとわかっていたから、これでも彼女の身を案じて留守番を命じたのだ。
は知らないだろうが、敵はの存在を知る者が多い。
赤壁での戦いに従軍していた将たちが、合肥に残っているという話も聞く。
だから尚更の従軍を許さなかったのだ。
戦場に赴けば、生死の危険とは違う意味での危機がを待ち受けていると陸遜は考えていた。
下手をすれば本国へ『救出』されかねない。
曹魏にとって呉は敵国であり、その地からを連れ戻すことは掠奪ではなく立派な救出行為なのだ。
彼女がこちらでどんな生活を送っていようと、助けることに変わりないのだ。
「せめて、無事に凌統殿たちと合流できていればいいのですが・・・」
今のは、曹操の娘で敵国の姫君であるではなく、凌統という孫呉の将が愛する1人の女性に過ぎない。
この事実を覆し、あるいは無に帰すようなことがあってはならない。
そのあたりを踏まえた上では戦場へ赴いたのだろうか。
ますますもってあの娘が考えていることがわからない。
陸遜はの部屋を後にすると、帰還した彼女に何と言って叱り飛ばすか説教内容を考えることにした。
あの時と一緒だ。
ただ違うのは、今日は味方だということ。
凌統は伏兵に囲まれ苦戦していたところにひらりと空から舞い降り、戦場に乱入した娘をじっと見つめていた。
細身の剣をきらめかせたちまちのうちに曹操軍を片付けた、色褪せた紅色の紐を髪に結った佳人。
と名を呼ぶと、戦場には似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべ娘が振り返る。
ああ間違いない、この子は俺が愛するお嬢さんだ。
ご無事ですか公績殿と尋ねられ、凌統ははっと我に返った。
「!?」
「はい」
「なんでここにがいるわけ!? え、いつから、1人で!?」
「はい、ここまでは1人で参りました。本当はもう少し隠れていたかったのですが・・・」
崖の上を歩いている折、伏兵に襲われている公績殿をお見かけしましたのでと事もなげに告げるに、凌統は思わず何やってるんだと怒声を浴びせた。
ここは戦場で、遊び場ではない。
ふらっと1人で訪れていいような場所でもない。
もそれはわかっているだろうに、どうしてこんな所にまで来てしまったのだ。
建業で留守番を頼んでいたのに、なぜここにいるのだ。
凌統から叱責を受けたがしゅんと顔を伏せる。
申し訳ございませんとしおらしく口にするの姿は雨に濡れた花のようで可憐だが、その手に持つ凶器を見てしまうとどうにも素直に見惚れてはいられない。
凌統はごめんと小さな声で謝ると、俯いたままのの顔に手を添えた。
「助けてくれてありがとう、。すごく助かった」
「ですが、わたくしは公績どののお邪魔をしてしまったようで・・・」
「そうだね、いるならいるって最初から言ってほしかった。怪我はないかい?」
「はい。公績様もお怪我などはなさっていませんか?」
「俺も平気。・・・ここから先は俺の傍を離れないって約束してくれるかい?」
「よろしいのでございますか?」
「来ちゃったもんはしょうがないし。戦力として数えるから期待してるよ、」
「はい!」
それなりの敵に囲まれても存分に戦えたあたり、はまたひそかに腕を磨いたに違いない。
孫権軍は姫君を初めとして女性兵が多いため女が戦うことについては特に何も思わないが、自分の恋人も戦場で戦うとなると気持ちは少し複雑だ。
戦う相手が恋人の祖国となると、ますますが不安になる。
・・・まあ、顔色ひとつ変えず敵を屠る姿を見ていると不安も吹き飛ぶのだが。
さすがは冷酷非道と言われる曹操の血を引くだけはある。
敵と味方の区別をはっきりとつけ、余計な私情を挟むということを知らない。
道理で赤壁でも刃を向けられたわけだ。
「・・・おかしい・・・・・・」
「どうかしたのかい、」
「いえ・・・。一刻も早く呂蒙殿たちと合流した方がよろしいかと・・・」
「何かあるってわけかい。まあ、やけに敵さんあっけないしねえ」
「はい。公績殿、合肥の守将がどなたかご存知ですか?」
「張遼だよ。城に籠もってんのかね、見てないけど」
「張遼殿・・・! ・・・ご無事でいらしたのですね・・・。・・・ですが」
張遼ともあろう将が大人しく城に籠もっているとは考えられない。
彼には、曹操軍が誇る迅雷の騎馬隊がいたはずだ。
その騎馬隊がどこにもいない。
いないということは即ち、どこかに潜伏し機を窺っているということだ。
この場合、形勢の逆転を狙うために張遼が向かう場所はどこだろう。
ははっとして孫権が控える最後方の陣を見下ろした。
崖から一気に攻めかかれば本陣はひとたまりもない。
間違いない、張遼は孫権の首しか狙っていない。
だからこちらには見向きもしないのだ。
「公績殿、わたくしはこれより孫権殿の下へと参ります」
「、俺の傍にいるって約束もう忘れたのかい?」
「申し訳ございません。ですが・・・」
「張遼がどこにいるのか、まさか知ってるとか?」
「わかりません。ですが今、孫権殿をお一人にしておくのはいささか不安です」
「止めても行くんだろう、は」
「はい。・・・ご安心下さい、わたくしはかような出自。囮のようなものにもなれましょう」
「・・・呂蒙殿たちと合流したらすぐに迎えに行く。危なくなったらすぐに逃げてくるんだ。俺は殿よりもの方が」
「それは口にしてはなりません。・・・大丈夫です、いざとなれば本陣ごと火の海にする所存です」
あ、やっぱり燃やしちゃうんだ。
そんな気はしないでもなかったけど、やっぱり燃やしちゃうんだ。
凌統は、おそらくは火の海にすることを前提として孫権の元へと向かったの背中を、見えなくなるまで見送るのだった。
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