策士は愛を策にする
とても魅力的な人がいた。
彼女が育った家は軍にも出入りしている信頼のおける商家で、手伝いに訪れていた彼女自身とも幾度となく顔を合わせ挨拶を交わしていた。
嬉しいことがあったのか、ぱあと瞳を輝かせ笑顔で話す彼女のことを好ましく思っていた。
ある時を境にぱったりと姿を見せなくなり、家中の人々も彼女の名を出すのを憚るようになってしまってから、消息を知ることもできなくなったのだが。
一度だけ、商家の主に尋ねたことがある。
あなたの娘さんと昵懇の仲になりたいのだけれど、と。
困り切った顔で弱々しく首を横に振られたのは、数少ない敗北の思い出だ。
「まさか、こんなことになっているとはね」
「・・・ご用件をお伺いしても」
「数年前の問いかけを、今度はあなた本人に向けてしたいのだけど」
「それだけはどうかご容赦を、郭嘉様」
曹操麾下にいた軍師が反旗を翻し、呂布と共に天下を目指した時があった。
その登場はあまりにも鮮烈で、周到に根回しされていたらしい各地の軍勢に曹操軍もかなり手を焼いた。
呂布軍の苛烈な攻めには、住民たちも少なからず被害を受けていた。
彼女が周囲から消えたのはちょうどその頃だ。
拐かされ妻とされていたと知ったのは、彼女の夫が斬首されてからだ。
一帯の交易を担う商家を取り込めば、統治も円滑に進むとでも考えたのだろう。
いかにもあの男が考えそうな策だ。
しかし商人というのはなかなかに非情な生態で、娘の存在を消し去ってしまった。
夫を喪い、実家にも見捨てられた今の彼女に居場所はない。
情けとばかりに与えられた寂しい邸が、彼女の唯一の居場所だった。
「無理やり拐かされていたのなら、家に戻ることもできるのでは?」
「いいえ、家に戻らないのは私の意思です」
「は何にでも嫌だという。自分の意見を持つことは素晴らしいと思うけど、少し意固地ではないかな」
「嫌ではなかったのです」
「ふぅん?」
「あの人・・・陳宮様は拐かしてなどいません。連れて行ってと私が頼んだのです」
父に連れられ軍に出入りしていた頃からお慕いしていたのです。
壮大な夢を語るあの人に勝手に憧れて、渋るあの人の腕にしがみついて、そうして私も出奔したのです。
途方もない叶わぬ夢だとわかっていても、夢を語るあの人が、公台様が好きだったから。
そう一気に言い切ったが、小さく息を吐くと顔を伏せる。
年月は経たが、彼女のきらきらと輝いた瞳はあの頃と変わらない。
紅潮した頬のまま納品した資材の数を数えていたのは、色男に言い寄られて照れていたのではなくて、想い人の与太話に当てられていたからか。
正真正銘の負けだった。
戦に勝って、初めてきっぱりと敗北を知らされた。
「郭嘉様のお気持ちは知っていました。だから生き延びられると公台様は言い残されました」
「当時の私は随分と殿に熱を上げていたらしい。そして殿は正直すぎる」
「はい。そんな私は軍師の妻には相応しくないと言われ続けていました。その通りだと思っています」
「だから、私の願いには添えないと」
「どうか、ご容赦を」
思いを遂げれば、あの男が最後に遺した策にまんまと嵌ることになる。
敗北に敗北を重ねることはしたくない。
は今も昔も変わらずあの男のものだ。
郭嘉は深々と首を垂れ拒絶の意思を示しているの白い項を黙って見下ろした。
甘いだけではない・・・そんな君を更に愛してしまうなんてね