策士の夢は目覚めない




 初めて見たのがいつ頃だったのかはわからない、
いつからそこにいたのかもわからないほどに存在が希薄で、興味もない娘だった。
曹操軍出入りの商家の娘として育ち家業を手伝い輜重の運搬や納品に訪れていた彼女は、荷受け役だった優男の軍師によく言い寄られていた。
かわいそうに、世間知らずの生娘に悪い虫がついている。
打算あっての口説き文句だったのかもしれないが、打算も下心もわからないような娘にするには底意地が悪い。
そもそも本気だとしたら余所でやるべきだ。
悪い大人に弄ばれている彼女がほんの少し哀れで、優男の緩み切った笑顔を見るのも嫌で、己が理想を離せなかった主にも辟易としていた頃だ。
彼女に初めて夢を語って聞かせたのは。



「それが陳宮様の夢・・・? すごい・・・、なんて大きな夢・・・!」
「夢は大きく、大きく持つものですぞ。殿もお父上の手伝いをただ行うだけではなく、この仕事を通してより広く、広く世界を見通すべきです!」
「広く、大きく・・・。広く、大きく!」



 戸惑ったようなぎこちない笑みだけではなく、ぱあと明るく朗らかに笑うことができるのだと知り、その笑顔が他者には向けられないことに気付くにはそう時間はかからなかった。
困った、というのが第一の感想だった。
好かれるようなことは言っていない。
言いたいことをまるで自分に言い聞かせるように話し続けただけで、彼女もしきりに頷き、きらきらと輝く瞳で見上げていただけだ。
次第に熱が籠もるようになったその視線に気付かないふりをしたのは、こちらが理性のある大人だったからだ。
打算があって近付いたわけではない。
理想の実現に彼女は必要ではない。
彼女はあくまでも理想を叶えるための準備期間に出会った退屈しのぎの話し相手にすぎず、夢の共同実行者ではない。
己が策謀に抜かりはないとの自負はあるが、縁もゆかりもない小娘を巻き込むようなことはしたくない。
彼女が何者であっても、だ。
そう言い切っても嫌だと言い張り、何度振り払ってもそのたびにしがみついてきた細い腕の持ち主は、乱世に揉まれる覚悟が出来上がった女へと変貌していた。
変えてしまっていた。



「陳宮様の夢は私の夢なのです。夢になってしまったのです」
殿はまず、地に足の着いた生き方をせねばなりますまい・・・」
「私は陳宮様の理想が地に着くことを、今はなにより願っているのです。広い世界を見るべきと話してくれたのは陳宮様です。私は広い世界が見たい、あなたと見たいのです」
「・・・許して、許して下され殿」
「いいえ許しません、許せません。お願いします、私をお連れ下さい。夢の終わり、理想の先までどうかお傍に」




 終わるはずだった夢はまだ終わっていない。
終わったはずの夢は、かたちを変えて蘇り今も続いている。
夢に夢を重ねてくれた彼女は、今は隣にいない。
一度目の夢が終わった日、彼女が棄てた現実へ攫われてしまった。
取り戻さなければならない。
彼女が夢見た夢を見せなければならない。
彼女の目を覚ませてはいけない。
陳宮は新たな軍袍に袖を通すと、主やその義兄弟と轡を並べた。




「と、陳宮が酒の席で言っていたのだ」「へっ、あいつもあれで一途なとこあるじゃねえか」



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