私は秘密に蓋をしました




 元直が私の名前を呼んでいる。まだ私の名前を呼んでくれる。
生きてはいけないほどの裏切りと過ちを犯した私を追い出すわけでもなく、今もこうして妻として扱ってくれている。
私がすべて悪いのに、元直は私よりも先に謝った。
君をひとりにしてしまった俺がいけなかったと、元直は何も悪くないのに頭を下げた。
ごめんなさいと言えただけだった。
弱くてごめんなさい、気付けなくてごめんなさい、あなたを裏切ってしまってごめんなさいと、それを繰り返すことしかできなかった。
本当に悪いのはあの人だけど、顔をずっと見ていない。
見たくもないからちょうど良かったけど。
あの人が私をどう思っているかなんて、私には永遠にわからないままだ。



、そこは冷えるよ」
「でもまだそんなに寒くないから」
「寒いと感じた頃にはもう身体は冷えてるんだ。体に障るからこちらにおいで」
「・・・うん」



 窓際からゆっくりと立ち上がると、すかさず元直が体を支えてくれる。
私の体は私だけのものではない。
あんな事があったのに私を妻のままでいさせてくれた元直は、私をたくさん愛してくれた。
嫌な思い出を塗り潰すように。
元の穏やかな日常に戻れるように、それは甘くて優しくて、時々痛くなるほどに激しいひとときだった。
2人きりで過ごす日々はもう訪れない。
私の身体には元直との子どもが宿っているからだ。



「調子はどうだい? 医者は?」
「うん、順調だって。あ~でももう少し動いた方がいいって言ってた。確かに隆中にいた頃に比べると全然歩いてない」
「隆中か、懐かしい場所だよ。君の行動力のおかげで俺は君に出会うことができたんだ。君には感謝してもしきれない」
「最初は見ず知らずの怪しい男を簡単に家に上げるなって諸葛亮殿に叱られたんだっけ。・・・ああ、私ってばその頃から不用心って見透かされてたんだ」
・・・。どこか出かけるかい? 家に籠ってばかりだと気が滅入ってしまう」
「元直もお仕事あるでしょ。そんな遠出はできないし、家の外歩くだけでも全然違うと思うからひとりで大丈夫」
「・・・・・・ごめん、外は歩いてほしくない」
「まあそうだよね〜」



 日中でもなせだか出せずその辺をほっつき歩いていた司馬懿殿だ。
今も日がな一日散歩をしているかもしれない。
次に顔を合わせた時何が起こるのかわからないけど、その日が来るのがとても怖い。
司馬懿殿の奥方の張春華殿はお優しい方だけど、それは私が近所に住む元直の妻だったからだ。
今も身分こそは同じだけど、関係が変わってしまったのでどう思われているのかわからない。
信じられないけど、本当はとても怖いお方だとも聞く。
私自身は八つ裂きにされても橋から突き落とされても構わないけど、元直の子どもだけは守らなければならない。
この子は元直の血を継ぐ子どもだから。
不肖の母だけど、父はものすごく賢くて強くて優しいからきっといい子に育つはずだ。
誰からも愛される子でいてほしい。



「仕事場でそれとなく歩きやすい場所がないか尋ねてくるよ。郭淮殿という方がいるのだけど、彼はものすごい愛妻家でね・・・」



だから家の中で待っていてくれるね?
有無を言わさない元直の言葉に、私も笑顔で頷く。
広くはない邸で庭も同じように慎ましいけど、隅から隅まで何往復もすれば運動にはなるはずだ。
私の体は元直のためにある。
私は元直と一緒でなければ生きられない。
日に日に存在感を増していく腹にそっと手を当てると、元直の手と重なる。
元直の子どもに決まっている。
少し早く生まれるのかもしれませんなと呟いた医者の言葉は、元直には伝えられなかった。




人の言葉を素直に信じられるほど、軍師はお人好しじゃないんだ



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