私は意気地なしの男です
庵の奥から妻の驚いた声が聞こえてくる。
常に冷静で感情を表に出すことが少ない妻が、声を震わせながら話を続けている。
大丈夫大丈夫と軽やかに答えているのはだ。は月英に何を言った。
は今度は何をした。
静かに時間が流れる隆中に俄かに漂い始めた不穏な空気に、諸葛亮は狼狽えた。
これからきっと良くないことが起こる。
どうすれば回避できるのか、何を吹き込めばを言いくるめられるのか必死に考える。
何の騒ぎですか。
努めて平静を装い、月英とが対峙している部屋へ入る。
くるりと振り返った2人の女性の対象的な表情に、事態の深刻さを把握する。
「殿、今度はいったい何を」
「孔明様」
「月英、どこへ」
「孔明様、殿とよく話し合われて下さい」
「話はいつもしていますが」
「孔明様、どうか孔明様の御心のままに」
入れ替わりに出ていった妻を追いかけることができなかった。
夫婦の会話をじっと眺めていたの視線の誘惑に抗うことができず、の前に座る。
月英が残していった意味深な言葉の意味を推し量る。
わからない。
とはいつも噛み合っていない会話はしている。
今更何を曝け出すというのだ。
あのね諸葛亮殿。
の晴れやかな声に諸葛亮は我に返った。
「私、許昌に行くことになったの。元直が曹操に呼ばれたから一緒に行くの」
「罠です」
「よく知ってるね。そう、元直のお母様が人質にされたんだって」
「行くべきではありません。行くのは元直だけで良いはずです」
「もう~、夫婦揃っておんなじこと言うんだから。私は行くって決めてるの! もう荷造りもしてるし」
「元直が許すはずがありません」
「押しかけ恋人になるから大丈夫」
「恋人らしいこともしていないのに?」
思わず発してしまった言葉に、の顔がぱっと赤くなる。
苛々していた。
許昌に行くと告げられた時から、腹の底にどす黒い感情が煮えたぎっていた。
とずっと一緒にいたのは私なのに。
隆中に来た時からずっと、が世話を焼いてきた相手は私なのに。
嵐の夜に庵の隅で震えていたを慰めたのは徐庶ではない、この諸葛孔明だ。
本当に心の底からを想い愛しているのなら、罠だとわかっている敵地に連れて行こうなどとは思わない。
なぜ徐庶はを拒まない。
は隆中に残るべきだ。
を渡したくない。彼女は今までもこれからもここにいるのだ。
不意に、別れ際の月英の言葉が蘇る。
ああ、そういうことかと常時なら思いもしなかった、否、心の奥深くに押し込めていた劣情が溢れ出す。
いけないとわかっていても、目の前にがいれば体が動く。
彼女をずっと愛していたからだ。
「そういうのはまあ、おいおい・・・」
「・・・」
「ていうか諸葛亮殿もそういうこと言うんだ」
「私も男です」
「そのくらい知ってるけど、え、なに」
「・・・」
「ねえ諸葛亮殿、顔すごいよ。どうしたの、具合悪いの?」
葛藤を不調と捉えたのか、の白い手がゆっくりと顔に伸ばされる。
触れられたら後には引けないし、逃がすつもりもない。
優しさと戸惑いから差し伸べられる手を引きずり、きっと、心のままにしてしまう。
諸葛亮殿と、が不安げな声で呼ぶ。
そんなに私のこと心配なのと続けるに小さく笑みが漏れる。
今もっとも心配すべきは自身だというのに、彼女はどこまでも心優しい人だ。
優しさを裏切るようなことはできない。
出仕もせず長く隆中に引きこもっている偏屈な若者を友と呼び、叱咤してくれる彼女とはずっと友でいるべきなのだろう。
それがの望みで、きっと彼女はそれ以外の感情など気付いてすらいないのだろうから。
「諸葛亮殿、私がいなくなっても平気? お掃除できる?」
「平気ではありません」
「じゃあ一緒に来る?」
「殿が残ればすべてが丸く収まります」
「ふふっ、諸葛亮殿ってばぜーんぜん私離れできてないんだから。私のこと好きすぎるでしょ」
「そうです」
「でも私、ほんとに押しかけ恋人になるから。元直のお母様とも上手くやるから」
「殿」
「わっ、な、なに」
この程度の告白ではには何も響かない。
彼女が受け止める「好き」は、永遠に友情からの「好き」だから。
猛り出た欲情を再び胸に閉じ込め、の腕を引き寄せる。
このくらいなら、きっと彼女は許してくれる。
徐庶だって気付かないし、妻に言うつもりもない。
私は殿の水でありたかった。
およそには理解できそうにもないであろう告白に、腕の中のが首を傾げ笑った。
月英は、私には過ぎたる妻です