相互利用の化かし合い
洛陽の司馬一族のひときわ小さい別邸に、置き物のような女がいるらしい。
話しかけても答えはなく、ただ、こちらからの声は聞こえてはいるので首を動かすだけ。
司馬昭も彼の妻も多くは語らないその女は、亡き司馬懿の娘という。
『語れるほどの思い出がないどころか、俺はまだ兄貴と名乗れてもなくてさ』
完全にしくじったと、夫妻はぼやいていた。
司馬昭の失態ならまだ理解はできるが、才媛と名高い王元姫までもが頭を抱えてしまっているのは興味深かった。
女は蜀に長く住んでいたらしい。
司馬懿の娘がなぜ蜀にいたのか、疑問はあるが尋ねられるわけもない。
蜀にいたのなら、趙雲も知っているのでは。
好奇心で零れた独り言を聞き漏らさなかった司馬昭の一案で、この身は別邸の前にある。
文鴦は人気のない静かな邸にそっと立ち入った。
身の回りの世話をしているであろう侍女が、勝手知ったように外に出る。
眼光の鋭く、動きに隙がない女だった。
侍女の身なりはしているが、おそらくは兵だろう。
複雑な事情があるにせよ血を分けた妹だ、隙間風のような噂が流れてしまっている以上、彼女の身を案じての苦渋の措置と思われる。
「・・・失礼する」
部屋の前で声を上げるが誰もいない。
窓が開いており、そこから覗くと中庭に女がひとり座っている。
よく通った鼻筋が印象的な女だ。
改めて庭に出て、少し離れて女の前に腰を下ろす。
司馬昭よりも、どちらかといえば司馬師に似ている気がする。
どうせ相手は何も喋らないからと油断していたのかもしれない。
美人だなと呟くと、女の目がびっくりしたように瞬く。
大きな瞳がキラキラと輝いている。
自身が知りうる限りの司馬一族の誰にも似ていない美しい瞳に、反応されたことに戸惑っている自身が映っている。
「突然の非礼、失礼した。私は文次騫という。あなたが以前蜀に住んでいたと聞き、尋ねたいことがある」
「・・・」
「今回の訪問は司馬昭殿からの依頼だ。然るべき手順は踏んでいるので、警戒はしないでほしい」
「・・・」
「その、趙雲という将を知っているか? 自分で言うのもおかしな話かもしれないが、私は戦場で武を奮えば趙雲殿のようだと言われる。だが、私は趙雲殿を知らないのだ・・・」
ぱっちりとした女の目がすうと細くなる。
綺麗だなと見惚れていると、不意に女が立ち上がる。
名を呼ばれた気がするが、ここには誰もいない。
柔らかくて温かい、親しみのある声音だった気がする。
親ですらこうは呼んではくれなかった。
時勢をことごとく読み誤り、人心をすべて手放した父の間際の声が脳裏をよぎる。
国を裏切った父を裏切った息子への負の感情が詰まった呼び声は、今でも背中に張り付いている気がする。
「あなたが文鴦殿・・・」
「は・・・」
にこりと微笑んだ女が、座ったままのこちらを見下ろし名を呼んでいる。
喋った。
思わず驚きの声を上げると、女がくすくすと笑う。
喋るどころか笑った、しかも声すら愛嬌がある。
なぜ彼女は無言になってしまったのだろう、こんなに綺麗なのにもったいない。
文鴦は慌てて立ち上がると改めて女を見下ろした。
ふーん、そういうこと。
わずかに聞こえてくる独り言が可愛らしくて、司馬一族にもこういう人間がいるのだなと物珍しいものを見た気分になってくる。
「似てるかも・・・」
「そ、そうか! それは良かった、具体的にはどのように・・・」
「私はあなたをよく知らないから、まだ上手くは・・・」
「それもそうか。よし、では私から司馬昭殿にあなたを外へ連れ出してよいか掛け合ってみよう!」
どんな理由があろうと、人を邸に閉じ込めたまま住まわせるのは良くはない。
外に出た先で司馬昭と会えば、しくじりも挽回できるかもしれない。
彼女は話せないわけではない。
興味のある話題を投げかければ反応し、笑ってくれる。
蜀はもうない。
蜀帰りの司馬懿の娘が抑圧され、鬱屈した日々から解放されてもいい。
「次会った時は、私に趙雲殿の話を聞かせてくれないか?」
にっこり笑って頷く女の笑顔に頷き返す。
文一族は父の謀反の件もあり、未だに魏での立場は苦しい。
ここで司馬昭に恩を売っておけば、国内での地位も高まり衆人からの冷ややかで疑念の籠もった視線を浴びる機会も減るだろう。
女も気分転換に外に出れば悪い気にはなるまい。
蜀よりも洛陽の方が遥かに華やかだ。
大望を胸に秘め帰っていく背を、女が見送ってくれる視線を感じる。
「ちょうどいいのが来て良かった~」
女の不穏な決意表明は、文鴦には聞こえなかった。
ここじゃあ姜維殿を止められない