友よ、とこしえに幸あれ




 捨てたはずの地位を拾い上げ、あるいは後生大事に宝物のように抱き続ける者が他にもいた。
彼については仕方がないと思う。今更弁解するつもりも後悔もしていないが、後味の悪い思いをさせてしまったなという心当たりも大いにある。
だが、差し出された手は握れない。
彼にとっての宝物は、誰かにとっても同じように宝物以上の存在なのだ。
は全身を重い甲冑で包んだかつての友人が差し伸べた手に触れることなく、首を横に振った。
兜で顔を覆っていてもわかる、鋼の下に潜む彼の顔が泣き出さんばかりに歪んでいることを。



「なんで、なんでだよ公主! ここにいたってろくなことはない、曹爽殿はわかる、でも夏侯玄殿まで罰を受けたことは公主だって知ってるだろう!」
「よもや司馬懿殿・・・いえ、そのご子息が斯様に苛烈とは私も思いませんでしたが・・・」
「そう、尋常じゃない。俺はともかく公主の方がもっと殺されてもおかしくない。司馬一族は本気で曹氏を滅ぼすつもりだ。今度こそ、いや次は部下に殺されるんだよ殿は!」



 今度も何もまだ一度も死んだことはないのだが、夏侯覇がそう叫ぶのも仕方がない。
死んでいたのだ。死んだとされていたのだ。
誰も眠っていない墓も見た。
自分の墓を見せられた時は不思議な気分だった。
ここに入るのはいつだろう。
思わずそう尋ねると、この身を曹魏の都へと連れ戻した男はとても苦しそうで嫌な顔をした。
嫌な顔をさせたのは嫌な女だ。
愛する夫を亡くし、常に文句いっぱいだった身元引受人が朋党の乱に巻き込まれ彼が築き上げた功績からは信じられないような憂き目に遭い、貴女だけは逃がさなければならないと強引に建業の地を追い出された流浪の身を抱きとったのは司馬一族の主だ。
殺すわけがない、殺されるはずがない。殺せるわけがない、彼の情念は知っている。
兄への衷心から抑えているのか、言われないから応えていないだけだ。
だが、今日の夏侯覇を見る限りはそろそろ刻限が近付いてきたと感じる。
意地で友を殺したくはない。
確かにこのままでは夏侯覇も弑されてしまうだろう。
司馬懿にその気がなくとも、彼の息子は兵を差し向けるかもしれない。
夏侯覇は武人だ、我が身に及ぶ危険を察するのは聡い。
だが、彼の手を取ることはできない。
夏侯覇一人が逃げることには目を瞑られようと、彼が曹操の娘を連れ出奔したと知れば司馬懿は必ず追手を差し向ける。
あの情念は少々嫉妬深い。



公主、なあ、逃げよう? 俺は曹魏に仕える男だ。俺を最後まで光り輝く鎧武者で、公主を今度こそ守らせてくれよ」
「夏侯覇殿こそわたくしを今でも曹魏の公主と見ていただけるのであれば、わたくしに臣下を守り導く務めを果たさせていただきとうございます」
「そんなの無理だって! 何か手はあるのか? いやいやいやいやないだろう、この期に及んでそんな奇策を思いつける軍師はもういない!」
「軍師はおらずとも、勝算はわたくしの胸の内に」
「公主・・・」
「夏侯覇殿とお会いできて嬉しゅうございました。あの張飛殿の奥方は夏侯一族の方だと伺ったことがあります。巴蜀の地でも、どうかご武運を」
「・・・殿も御身を第一に。いつか、必ずお救い申し上げます。だからその時まで・・・くそっ、どうして殿ばっかりこんな目に! 孫呉の連中も攫ったんなら最後まで守ってくれよ!」
「夏侯覇殿・・・」



 心を決めた夏侯覇が足早に去る。
彼の後を追わせはしない。
彼の行く末を守るのが、曹魏の公主として生まれ育った最後の役目だ。
皮肉な話だ、公主として過ごしたのは人生のうちでもほんのわずかな期間で故国を裏切ったとすら思われていてもおかしくないのに、今になり誰もが公主と仰ぎ見る。
己からは決して訪れることになかった司馬懿邸へ向かう。
名を告げただけで慌ただしく姿を見せた男の姿に、ほんの少しだけおかしくなる。
少年のように弾けた様子でいて、そのような姿を彼の奥方に見られでもしたら、いや、彼女は先だって亡くなったか。
燻る男の心に炎を吹かせるにはあと一息、あと一歩。
は司馬懿の手をそっと握り締めた。




その献身に応えるだけ。心は誰にも渡さない



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