忘れ形見は顧みらない




 忘れ物しちゃった。
陣も綺麗に引き払い、成都から進軍してきた日と同じ道を辿っている途中で思い出す。
取りに戻りたいと言うと、隣を歩いていた月英様が困った顔をする。
ついでに姜維殿も思いきり嫌な顔をする。
その表情は大正解だ、取りに戻る先は今では魏軍の領土だ。
どうせまだ馬鹿とか凡愚とか言われるんだろうが、悲しいことにその手の叱責には慣れっこだ。



、それはいけません」
「でも大事なものなんです」
「今から五丈原へ戻るのは危険が過ぎます。私には、の命よりも大事なものはありません」
「でもでも」
「月英様の仰るとおりだ。殿、あなたひとりの我儘で軍を危険に晒すわけにはいかない」
「私だけ戻るのでもだめ?私だけなら他の人は巻き込まないし、顔も割れてないし・・・」
「もっといけません!」
「ひぃっ!」



 久々に月英様に本気で怒られた。
そりゃそうだろうなと思う。
孔明様だけではなくまでなんて言って、いつも気丈な月英様が震えている。
その震えが怒りからか恐怖からかはわからないけど。
月英様にとって私はそのくらいの存在だったんだなと思うと、我儘を引っ込めてしまいそうになる。
でもここは引き下がってはいけない、機会は今しかない。
きっと蜀軍は二度と五丈原まで進攻することはできない。
諸葛亮様を超える人材は蜀にはもう現れない。


「月英様、私ちゃんと戻ってくるので大丈夫です! 魏軍もなんだかんだで戦後の処理とかで忙しいだろうし、私みたいな小娘ひとり本当に路傍に咲く一輪の花・・・て感じで見逃してくれますよ!」
「いや、司馬懿を侮ってはいけない。殿が丞相の周りをうろついていた得体の知れない存在だと耳に入っているかもしれない」
「姜維殿、ここぞとばかりに貶してない?」
「たとえそうだとしても、殿が五丈原に戻るのは賛成できない」
「まあ別に私の行動に姜維殿の許可はいらないんだけど」
殿!」



 私は別に間違ったことは言っていない。
姜維殿は私の上司ではないしむしろ後輩だし、とやかく口を出されて従う必要はない。
何を隠そう私は官職をもらっていない正真正銘諸葛亮様の秘蔵っ子だったから、無位無官の私に姜維殿の命令は通用しない。
そんな無敵の私が言うことを聞くのは諸葛亮様月英様陛下あとなんかその辺の逆らったらいけなさそうな人たちで、残念だけど姜維殿はその中には入っていない。
まあ、今日の私は遅れてやって来た反抗期なので月英様の言うことも聞かないんだけど。
お叱りは後でたんと受けるとして、気持ちも足も既に五丈原へ回れ右しているけど!



「月英様お願いします、信じて」
・・・」
「私の帰る場所は諸葛亮様と月英様の家しかないんです。だから私は諸葛亮様の忘れ物取りに行きます。私しか行けないって月英様もわかってるでしょう?」
「・・・ええ、そうですね。帰って来てくださいね、必ず」
「お任せください!」
「待つんだ殿、殿が行くのなら私も同行する!」
「いや、それされると私が死ぬんでやめて。さすがにそこまで嫌がらせされると困る」



 月英様に見送られ、単身再び五丈原へと歩き出す。
独りぼっちの行軍、心細いし実は怖い。
でも、独りぼっちなのは諸葛亮様もだ。
私の背中に、諦めの悪い姜維殿の叫びがぶつかった。














 北伐についてきたのは独断だった。
諸葛亮様は絶対に許さなかったからこっそり紛れ込んだ・・・つもりだったけど、当たり前のように名前を呼ばれ返事をしてあっさりと露呈した。
来ちゃったから諦めたのか、諸葛亮様は仕方がない子ですと言って忙しいだろうに陣のあちこちを案内してくれた。
とっておきの服は残念ながら手違いで司馬懿に送りつけちゃったらしいけど、それも今となってはいい思い出だ。
乱世の最前線で、今までで一番親子らしいことをした。
父子みたい、そう言えなかった。
言って良かったのかわからなかったので躊躇ってしまった。
でも、そんな心の葛藤すら諸葛亮様にはお見通しだったのかもしれない。
私はあなたのいい父親でしたかと訊かれたのが、私と交わした最期の言葉だった。
首がもげてしまうのではないかと思うくらいに激しく何度も頷いた姿は、諸葛亮様には見えていたのだろうか。



「・・・と、辞世の句を詠んでしまったりして」
「それをお前の国では詩を呼ぶのか?」
「いや、これは独り言っていいます」


 恐ろしく顔の良い男にあっさりと見咎められ、そして捕まった。
怪しい動きをしていたつもりはもちろんなく、ただ諸葛亮様が築いていた陣で葛籠を漁っていただけだ。
服の代わりにもらった書物、厳密に言えば書物に栞代わりに挟んでいた木札を引き取りに来ただけだ。
私にとってはなくても構わない、なんなら今すぐにでも薪にしていいくらいのものだったんだけど、諸葛亮様は捨てることを固く禁じていた。
でもこれが見つからないんだなー、どこかに零れちゃったのかなー!
そう思って地面に這いつくばっていると、背後から襲われた。
丸腰の私相手に後ろ手に縛り椅子に括りつけて、これはひょっとしなくても万事休すだ。
良すぎる顔に見惚れている場合ではない。
どこかで見覚えがあるような気がしないでもないけど、こんなに顔がいい男は一度見たら忘れないはずなのでたぶん気のせいだろう。



「貴様、ここで何をしていた」
「ちょっと探し物を・・・」
「諸葛亮の陣でか? 何を探していた、出せ」
「いや、見つからないからずっと探してたわけで、ていうか見つけてたら私もさっさとこんなとこから逃げてるし・・・」
「屁理屈を捏ねるな!」
「うわ、こわっ・・・」
「師、やめよ」
「父上」


 顔のいい男が急に大人しくなり、誰かが新たに入ってくる。
顔のいい男によく似た、冷たい印象しか持てない顔のいいおじさんだ。
やめよとか言ってるけど、どうせ状況は変わんないし。
そんな独り言が気に障ったのか、若者にまた睨みつけられる。
姜維殿より口喧しそうな男だ、学習した、黙っておこう。
息子を追い出した父親が、黙ってこちらを見下ろす。
探し物は見つかったのか。
その問いかけには、どう答えても正解がないことも学習済みだ。
ぷいと横をそっぽを向くと、男がくつくつと笑う。
見つかるわけがあるまい。
そう言われ、私は見つかるもんと思わず言い返した。




「見つかりますう、見つけますう。何よ何よ、みんなして私のこと凡愚扱いして!」
「探し物はこれか?」
「あ、それ! おじさん拾ってくれてたの、ありがとう!」
「お、おじ・・・っ!? お前、私がわからぬのか」
「魏軍に知り合いはいないですね・・・」



 縛られていることを忘れてうっかり立ち上がり、顔から地面に衝突する。
痛い、土がちょっぴり口の中に入った。
砂に汚れた顔を拭いたいけど私の腕は背中にあって、為す術もなく地面に突っ伏したままだ。
五丈原の土の感触を味わっていると、大事ないかと、頭上から妙に慌てた声が降ってくる。
どうやら私の予期せぬ行動に大いに戸惑っているらしい。
実はここまでの流れはすべて私の策略なのだ・・・!違うけど。
もぞもぞと動いていると、急に両手が楽になる。
のろのろと体を起こすと、顔を上げた途端に布で顔を拭われる。
痛い、強い、肌が荒れる!
なんだこのおじさん、さては私の大輪の花のような美貌に絆されたな?
それならそれでもっと優しく扱ったらどうなのだ!
私はこんな親ほど年の離れたおじさんは願い下げだけど!
本能には極めて忠実に動く私は、おじさんを思いきり突き飛ばした。
突き飛ばした拍子に、おじさんの懐からからりと乾いた音を立て木札が零れ落ちる。
早く回収してこんな所からおさらばしよう。
木札をもぎ取った私の腕をおじさんがつかむ。
ええい面倒だ、噛みついてやろうか。
月英様に知れたらそれはもう大目玉だろうけど、幸いここに月英様はいない。
私が白状しなければばれない暴挙だ、よしやろう。
私は大きく口を開いた。



! お前は本当に私がわからぬのか!」
「だから魏軍に知り合いはいないってば! 離してよー、はーなーしーてー!」
「これが何かわからないのか! お前は諸葛亮に、いや、諸葛亮はお前に何を吹き込んだ!」
「何もないってば! もうさっきから何なの!」
「私はお前のち」


 がぶーっと本当に噛みつくと、おじさんが情けない悲鳴を上げる。
待てと呼び止める叫びが聞こえるが、立ち止まってあげるはずもなく陣を飛び出す。
走って走って林に飛び込み、繋いでいた馬に飛び乗り成都への道を急がせる。
追手は来ないようだ。それにしてもあのおじさん、どうして私の名前を知っていたのだろう。
私はおじさんにもその息子にも名前を告げていないし、木札にも書かれていないはずなのになぜだろう。
というかあれは誰だったのだ。
名も知らぬ不審な男に噛みついてしまったことが、急に気持ち悪くなってきた。
やっぱり月英様に白状して医者を紹介してもらった方がいいかもしれない。
ああやだやだ、諸葛亮様に言われてたから取りに戻ったけど、こんな嫌な思いをするくらいなら言いつけを破ればよかった。
私は奪還した木札を取り出すと、そこにいつの間にやら新たに書き加えられていた一文に首を傾げた。




「それは、あなたがあなたであるための唯一の証明。決して手放してはいけません」「ふぅん?(諸葛亮様何言ってるんだろ)」



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