新人教育はおまかせ
蜀に新しい人がやって来た。
曹魏の名将夏侯淵のご子息の夏侯覇殿。
わぁお、 ほんとに?
突然の大物来蜀に驚いた私は、驚きをそのまま口に出して慌てて口元に手を当てた。
いっけなーい、ここ宮殿だった!
珍しく呼ばれて神妙にしていたけど場に慣れてないから緊張しちゃって、夏侯覇殿の自己紹介に我慢できずに声を上げてた!
陛下のお傍から睨みつける姜維殿の視線が痛い。
星彩殿の呆れ顔を直視できない。
穏やかに笑っている陛下だけが癒しだ。
これが仁の心、守ってあげてほしいこの笑顔。
ごほんごほんと大げさに咳払いした姜維殿が、険しい表情を夏侯覇殿に見せている。
疑うのも仕方がない、夏侯覇殿が夏侯覇殿だからだ。
同じ魏軍出身でも、天水のそのへん出身の姜維殿とは身分が違うもんな。
「、すまないが夏侯覇を案内してやってくれないか」
「私で良ければいくらでも! えーと夏侯覇殿? 私、よろしくね」
とびきりの笑顔を見せて、夏侯覇殿に挨拶する。
顔立ちがいいのは夏侯一族の遺伝なのかもしれない。
私を見つめる夏侯覇殿はなんだか微妙な顔をしてるけど、笑顔の種類がお好みでなかったのだろうか。
視界の隅でちらりと見える姜維殿の不機嫌な顔の理由も気になる。
宮殿で粗相をしたことはやはりお小言の対象だろうか。
夏侯覇殿には姜維殿は厳しい人だって教えておこう。
私、優しい先輩すぎる。
「行こ、夏侯覇殿! あんなとこからこーんなとこまで、私がぜーんぶ案内してあげる!」
「いやいやいやいや、この状況で動けるってどういう胆力?」
戸惑う夏侯覇殿の手を引っ張り、宮殿を抜け出す。
はは、は元気だなあ。
陛下の優しい穏やかなお声だけが、今の私の唯一の味方だ。
主だった諸将の居住地、とっておきの熊猫生息地。
案内できるところはすべて案内したつもりだ。
一応見張っていたつもりだけど、夏侯覇殿は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していただけで、特に妙な動きはしなかったと思う。
実際に何か行動を起こされたところで私にはどうすることもできないから、何もなくて一番ほっとしたのはきっと私だ。
また捕縛され連行され命その他の危険を感じるのはさすがに堪える。
私は馴染みの店で肉まんを買うと、夏侯覇殿を川辺に誘った。
どうぞと肉まんを差し出すと、輝く笑顔でありがとうと言われる。
姜維殿ではなかなかお目にかかることができなかった爽やかさだ、こういう後輩が欲しかった。
ようやく気付けた理想に胸を熱くしていると、不意に夏侯覇殿の視線を感じる。
じろじろ、ちらちら。
確かに私はその辺に咲く一輪の花にしては目立っているかもしれないけど、見るならもっと堂々と見てほしい。
「ねえ、私のどこ見てるの? 脚? 夏侯覇殿は脚が好き?」
「いやいや、なんだかこう、居た堪れなくて・・・」
「脚じゃないなら胸? あんまり自慢できることでもないけど、夏侯覇殿の元上司の曹爽には手籠めにされそうになったことあるよ」
「それ! やっぱ殿だよな、そうだよな! ということは、殿が司馬懿の娘?」
「そうそう、よく知ってるねーって、えっ、なんで知ってるの?」
「司馬懿が自分で『あれは私の娘だ』って言ってるところに俺が偶然いて、というか殿を雌鹿のようなしなやかな体だなーって見惚れて取り逃がしたのが俺で」
わぁお、ほんとに?
それ以外の言葉が出てこない。
他人に自分の自己紹介をされる日が来るとは思わなかった。
ちょっと褒めてくれてありがとう。
でも何がどうなっているのかわからなくて、とりあえず消えてしまいたい。
熊猫生息地に潜り込めば誰も気付かないだろうか。
駄目だ、ついさっき夏侯覇殿に「ここは私の逃げ場所だからね!」と堂々と紹介してしまったばかりだ、私ってなんて凡愚。
川面に映る私の顔、真っ青だ。
かつてないくらいに混乱してしまっている。
何を言えばいいのか、どうすればいいのかわからない。
肉まんを握り締め夏侯覇殿を見つめたまま昏倒したらしい私を、遠くで誰かが呼んでいた。
水面で血色いい顔が見られるわけがない