愛妻家は見た!




 政庁内を歩くのは久し振りだ。
足が覚えていて良かった。
行きたいかどうかといえば、今も昔も気が進まないが。
堅苦しい場所は苦手だ。
角を曲がった先に待ち構えている程昱に呼び止められないか、身だしなみが乱れていると曹操から窘められないか、憧れだったのあの将軍とばったり出くわさないか・・・。
すべてが懐かしい思い出だ。
曹丕が魏帝として即位してからは、仕える人々の顔ぶれは変わり馴染みの顔も少なくなった気がする。
それはそれで寂しいかも。
はそう呟くと、左手に下げた巾着を小さく揺すった。



「おや、賈ク殿の奥方では?」
「あなたは?」
「失礼を。司馬仲達と申します。殿のご活躍ぶりはよく聞いておりました。お会いできて光栄です」
「活躍など大げさな。今は官を辞した身です」
「退官された殿が登庁とは、買ク殿に?」
「ええ、まあ。あれは妻に対しても策を弄する人なので」



 司馬懿とは初対面だと思う。
同じ戦場に立ったことはあるかもしれないが、接点がなかった。
曹丕の代になってから重用されるようになった、非常に頭が切れる男とだけ聞いている。
俺よりもよっぽど人が悪いと賈クは評していたが、人相は夫の方がずっと悪い。
はこちらを品定めしているような司馬懿へ、すいと道を譲った。
国の大事を司る男と話す内容はない。
避ければ司馬懿も察するだろう。
の安易な発想は、策士には通用しないらしい。
と同じように通路の隅へ寄った司馬懿は、再び口を開いた。



「賈ク殿は私を警戒されておられるご様子。奥方の目から見ても、私はそれほど信用ならぬように見えますか?」
「政務の話はわかりかねます。司馬懿殿もお忙しいご身分のはず、私も先を急ぎますのでこれにて」
殿は歴戦の諸将たちからの覚えもめでたいと伺っておりますが」
「それが何か?」



 さすがは夫だ、人を見る目と己が才幹だけで生き延びてきただけはある。
彼を夫が警戒する理由も自分なりに理解できた。
あまり関わり合いにならない方が良さそうだ。
はぶら下げていた巾着の紐をきつく握ると、くいと手首を動かした。
中に何を入れていたのやら、指から離れた巾着が司馬懿の顔の真横をすり抜け彼方へ落ちる。
あらいけない、私ったら。
はたははと恥ずかしげに笑うと、呆気に取られている司馬懿を見上げた。



「すみません。私、昔から、難しい話を聞かされているとすぐに逃げ出す癖があるんです。司馬懿殿の前では行儀良くしていたつもりだったんですけど」
「そ、そうか。それは失礼した」
「派手に割れる音がしたと思ったら、こりゃまた随分な大立ち回りなこった」
「あら、文和殿!」




 会いたくて仕方がなかった!という殊勝な妻を装い、司馬懿を押しのけ賈クの元へ駆け寄る。
年甲斐もなく締まりのない笑顔を見せようとしていた夫の脇腹にずどんと拳を落とし、探していたのですよと低い声で囁く。
見たくもないであろう同僚夫妻の逢引きに毒気を抜かれたらしい司馬懿が、苦々しげな表情を浮かべたまま去っていく。
司馬懿の姿が完全に見えなくなったのを見届けると、は賈クからぱっと体を離した。
巾着の中の茶器だったらしい代物は、見事に粉々だ。



「いささか傍観が過ぎるのでは?」
「いやあ、愛しの細君が司馬懿殿に言い寄られていると知っていればもっと早く駆けつけたんだが」
「おかげで下らない茶番を演じる羽目になりました」
「拳の威力は茶番とは思えなかったんだが」
「茶番はその直前で終幕だったのですが」
「んー、相変わらず我が妻は手厳しい! ・・・それで、司馬懿殿はどうだった?」
「さあ? 私が今までお会いしてきた軍師の方々とはまるで違いましたので」



 それはそれとして今日の粗相は改めて謝罪にでも行かねばなるまい、賈クが。
司馬懿を見せるためだけに政庁へ呼び出したことにも、きつめのお灸を据える必要がある。
はそそくさと執務室へ戻ろうとしている賈クの背中に向かって、お早い戻りをと呼びかけた。




「お互いに妻に苦労しているようで・・・」「愛妻家の会でも結成するかい?」「そっ、それはぜひっ、この郭伯済もお仲間にゲッホッゴホッ!」



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