立体交差で待ち合わせ
人が落ちている。
とても苦しそうに顔を押さえて呻いている。
生きてるのかなあ、ていうかこれたぶん魏軍の兵だよね。
面倒なものを見てしまったが、無視できるほど冷淡になったつもりはない。
大丈夫、生きてる?
しゃがみ込みそう尋ねた私は、死人が呻き声を上げるかと反問されひぃと叫んだ。
結構な怒鳴り声、痛いのは顔だけで他は元気なのかもしれない。
私は、のろのろと起き上がった青年に布を差し出した。
「あれ、もしかして五丈原で私と会ったことある?」
「・・・お前か」
「そうそう私! えっどうしたの、顔大変なことになってるじゃん」
「姜維にやられた」
「あ~姜維殿殺し損ねちゃったのか~」
「なんだその言い様は。お前は私に死ねと言っているのか」
「だって敵軍じゃん・・・」
このまま姜維殿たちにここにいるぞーって教えてあげてもいいんだけど、なんだかそれはしたくない。
目の前の血みどろ青年には何の恩義もないけれど、この人の父親には借りがある。
私が捕虜にされて漢中で曹爽に手籠めにされそうになった時、逃げた私をそのまま見逃してくれたのはおじさんだ。
おじさんは敵の私に妙に優しくしてくれたし、守ってくれた。
だったら私も今日くらい、気まぐれでおじさんの息子を庇ってあげてもいいじゃないか。
姜維殿に知れたらそれはもう叱られるだろうけど、ばれなければ問題ない。
最近の姜維殿は見たいものしか見えなくなってきているので、きっと私の可愛いだけの行動なんて視界に入れてすらくれないだろう。
私は青年の顔に布をぐるぐるに巻きながら、青年の味方が現れるのを待つことにした。
「そういえばおじさんは元気?」
「おじさん?」
「ほら、五丈原で父上って呼んでたでしょ。あれはあなたの父上ではないの? 私、あの後もう一回おじさんに会ったんだよね」
「・・・どこで?」
「漢中! ほら、私ってば可愛いでしょ? だから捕まって曹爽に献上されそうになっちゃって、まあ逃げたんだけど。おじさんはね、その時に私を見逃してくれたの」
「お前は、あの男が何者か知らないのか?」
「そういや名乗らなかったなあ。ま、誰でもいいんだけど! でおじさん元気?」
「死んだ」
「・・・それってもしかして」
「勘違いするな。父上は、我々に家督を譲った後は静かに死んだ」
「そっか、良かった~」
青年がものすごく不思議な顔をしている。
怒っているようにも見える。
布で顔半分隠してもそう見えるので、腹の底から怒り狂っているのかもしれない。
余計なことを言っただろうか。
もしかしてあれで父子仲が悪かった?
そんなの知らない、親子仲が悪いのはそちらのご家庭の都合であって私が気を遣うべきじゃない。
むっつりと黙り込んでしまった青年を前に、私も途方に暮れてしまう。
助けとやらは早く来ないのだろうか。
というか、敵の増援が来られて私は無事でいられるのだろうか。
実は一刻も早くここから立ち去るべきだったのでは。
おーい兄上と茂みの向こうから声が聞こえ、逃走は無理だと絶望する。
顔のいい兄の弟は、やっぱり顔のいい弟なのだろうか。
だったら一度くらい見ておきたい・・・。
恐怖よりも好奇心が勝ってしまった私は、地面にぺたんと座り込んだまま弟らしき人物の到着を待つことにした。
「」
「ん?」
「このまま我らと共に来る気はないか」
「魏に? なんで? 言っとくけど、私は軍のことも政治も何も知らないからいても意味ないよ」
「政の道具にするつもりはない。お前もわかっているのではないか? このまま蜀にいても事態は好転せぬと」
「それを好転しない原因の国に言われてもねー」
「我らとの戦いを続ける限り、蜀は勝手に疲弊する。やがては成都が戦場になる時も来るだろう。お前はいつまで今のお前でいられる?」
「お兄さん、もしかして」
「・・・そうだ、私は」
「いや無理無理、私なんでだか初めて会った時からお兄さんのこと顔がいいとは思ってたけど、好きとかそういう感情は持てなかったんだよね」
「お前は馬鹿か・・・!?」
「確かに頭良くないしどっちかって言えば凡愚とは思うけど、面識ない人に言われると腹立つ」
「兄上! 可愛い女の子とお話ししたい気持ちはわからなくもないですけど、状況を考えましょう?」
「子上」
いいのは顔だけで、恐ろしく口が悪い男だ。
あの手の男は周囲に敵を作りやすい。
私が完全不利の一触即発状態に陥っていると、顔のいい弟が現れこちらにニコリと笑いかける。
まだ何か言いたげだった手負いの兄を抱え去ろうとする弟へ、私もひらりと手を振る。
もっときっぱりと嫌いと言った方が良かっただろうか。
諦めの悪い男は好きではない、今はこれまでと潔くいてほしい。
それを言う相手はたぶん、目の前のお兄さんではなくて姜維殿だ。
言って聞いてくれる姜維殿は初めからいないのだけれど。
「お兄さん!」
「」
「気にしてくれてありがと! もう怪我しないようにね」
「・・・お前も息災で暮らせ、」
そういえば、おじさんにしてもお兄さんにしても、どうして二人は私の名前を知っていたんだろう。
おじさんたち一族の中では、私って有名人になっちゃってるのかな。
大丈夫かな、寝言でうっかり私の名前呟いて家庭崩壊とかしてないかな。
遠くへ消えていく兄弟を見送っていた私の耳に、殿と呼ばわる姜維殿の声が飛び込んできた。
お世辞にも丁寧とは言えない手つきで顔に巻かれた布を、そっと撫でる。
初めて会った時は生意気な小娘と思っていたが、今日は違った。
それとも、信じられないが半分は同じ血が流れていると知り、急に兄心が芽生えたのだろうか。
他に呼びようがなかったのだろうが、お兄さんと何ひとつ間違っていない敬称で呼ばれたことも影響したのかもしれない。
それにしてもあの娘は詰めが甘すぎる。
こちらの素性もついぞ一度も確認することはなく、警戒心も欠落していた。
それほど諸葛亮に甘く育てられたのだろうか。
政治や軍、謀略とは無縁の生活を送ることができていたのだろうか。
それすらかの天才軍師の策略だとしたら、妹はなんと育ての親に愛されていたことか。
父はいったい、何があって娘を蜀へ手放したのだろう。
生前の父の様子を窺うに、父は娘のことを忘れてはいなかった。
こうなるに至った理由には母の存在もあるのだろうと思うと、何ひとつ尋ねることはできなかったが。
死の直前、事実を知ってしまった自分にだけを頼むと言い遺した父は、確かに妹を愛していたとは思う。
「兄上、随分とあの娘にご執心でしたねー」
「戯けたことを」
「お知り合いのようでしたけど、どこかで?」
「やはりお前も知らんのか」
「はあ、まあ」
「お前もあれの兄だぞ」
「はあ、さすが父上。俺たちの知らぬところで多くの妹を・・・ええ?」
それってつまり、どういうことですか。
素っ頓狂な声を上げた司馬昭の問いかけに、司馬師は私も知りたいと呻き声を上げた。
「この辺りに手負いの司馬師が逃げ込んだはずだ。見かけなかったか?」「司馬師とは名乗ってなかったから見てないかな」