彼女の運命を壊してしまいたい
大変よ大変、一大事よ諸葛亮殿!
そう叫びながらけたたましい足音と共に庵へ駆け込んできた娘に、諸葛亮は無言で湯飲みを差し出した。
豪快に水を仰ったに、恥じらいはないようだ。
今日はいったい何の一大事だろう。
毎日毎日一大事と、彼女の人生には一大事しかないらしい。
確かに一昨日の牛が崖崩れに巻き込まれた事件は農村における一大事だった。
昨日の、農耕馬の難産もそれなりに一大事だった。
なるほど、は嘘はついていない。
だったら今日は何だろう、助力できるものならば良いのだが。
がはあはあと荒い息を整えている間に、月英もひょっこりと顔を出す。
「殿、落ち着いて。大きく深呼吸しましょう」
「あっありがとう月英殿! そ、そうだ諸葛亮殿、最近水鏡先生のとこ行った?」
「ええ、今朝もお伺いしましたが・・・」
「いたでしょう! 徐庶殿! あの影がある感じ素敵じゃない? 私ああいう人にずっと憧れてた気がするの・・・」
「気の迷いでは?」
「孔明様」
今日の一大事は、過去最高につまらない茶番だった。
何も一大事ではない。
の憧れの人が徐元直?
ありえない、と彼ではまるで性格が違う。
人は自分にないものに憧憬を抱きやすいとは言うが、は思い違いをしている。
かわいそうに、はやはりもう少し勉学に励むべきだ。
ここはひとつ、溜めに溜めている家賃代の代わりに一講義設けよう。
「殿、人の心というのはもっと複雑でいて繊細にできているのですよ・・・。一目見ただけで憧れていた気がするなど、早計がすぎます」
「なんかでも放っておけなくって。雨に打たれてずぶ濡れになっててかわいそうだったから家に入れてあげたんだけど、そういえば匂いとかも好きだったかもしれない」
「短慮もいい加減にして下さい」
「孔明様、どうか落ち着いて下さいませ」
あーっ、また壁焦がしたぁとが悲鳴を上げる。
の向こう見ずな行動に苛立っていたのか、また無意識のうちに羽扇を薙いでいたらしい。
修繕費も上乗せするからねとぷんぷん怒っているが、怒りたいのはこちらの方だ。
長閑な隆中での生活を楽しんでいるのにずかずかと上がり込んでは月英との世間話で大輪の花を咲かせ、そのたびに書を捲る手が止まるのだ。
片付けてきますと言い、庵を後にした月英の背中を見送る。
いい奥さんだよねえ、早くどこかに出仕してもっときちんと養った方がいいんじゃない?
焦げた壁を撫でながら呟くに、じりと歩み寄る。
明日も行けば徐庶殿に会えるかな、どう思う諸葛亮殿?
くるりと振り返った先にあった男の顔の近さに、の目がぱちりと瞬く。
きらきら輝く黒い瞳に映るのは、苦々しげに眉を潜めた自分の顔だけ。
彼女はいったいどんな顔で徐庶を眺めていたのだろう。
自分には決して見せてくれないであろう甘やかで艶やかな顔で見つめていたらと、考えるだけで苛立ちが募る。
やはりいけない、今日は無性に腹立たしい。
今日こそ本当に一大事だ。
どうにかしてを繋ぎ止めなければ、彼女は手が届かない場所へ行ってしまう。
「・・・家賃を」
「は?」
「このままずっと納めるべきものを殿に渡さなければ、あなたはずっとここに来ますか」
「・・・は? え、なに、今、家賃代踏み倒すけどいいって言われてる?」
「取りうる手段のひとつです」
「え? なんで、なんでなんで、なんでそんな意地悪を堂々と言っちゃうの?」
「元直の元に行ってほしくないからです」
諸葛亮殿、徐庶殿のこと嫌いなの・・・?
どうして、せめて私のことが嫌いなのと尋ねてくれないのだろう。
もしそう訊いてくれたなら、違いますと明朗に堪える準備はできているのに。
この期に及んで何にも当てはまらない頓珍漢な問答を始めたに、諸葛亮は違いますと弱弱しく答えた。
ですが、友としての関係も断ち切りたくはないのです