浮かされるほど恋してる
ぱしゃりと、少し離れたところから水が跳ねる音が聞こえる。
水音に次いで響くのは、まぁ冷たいと小さく上がる悲鳴。
人里離れ、獣しか通らないような道を越えた先にある滝まで足を運ぶとは、危険なことをする女人もいる。
見て下さい、狼がいますカワイイなあ。
女人とは別に、年端のいかない子どもの声も飛び込んでくる。
狼と、今言ったか。
関羽はかっと目を開けると、滝壺から離れ辺りを見回した。
声がしたのは川の下流だ。
ここには自分の他に腕に覚えのある信頼置ける同志が2人いるが、追い払うことはできるだろうか。
狼はできれば群れていない方がいい。
「今の声、殿であろう」
「張遼殿は声だけで女人の正体がわかるとは、いかような鍛錬をすれば良いのでござろう?」
「声を追い逢瀬を重ね、声に縋り閉じ込めれば当然のこと」
「なるほど」
「ううむ、今日は殿は赤兎馬の馬具の柄を選ぶと言っていたのだが」
「なぜ関羽殿が殿の予定を?」
「義姉上にご不便なきよう、お側につくことを曹操殿に頼んでおるゆえ」
関羽と張遼が、先陣を競うような勢いで声の元へと駆ける。
先程まで滝の鋭さに体を貫かれていたとは思えない俊敏な動きだ。
曹操軍きっての猛将たちにこれほどまでに親身にされるとは、を養う荀攸もさぞや安心するだろう。
徐晃はしか見えなくなったらしい2人の後に続き、水面を走った。
と一緒にいた子どもが狼を撫で回している。
腹を見せてじゃれついている狼を見るのは生まれて初めてだ。
放っておいても良さそうだったが、虎の姿もちらりと見えたので小脇に抱え回収しておく。
頭上で鷹が舞っている気がするが、ひょっとしなくても鳥たちもこの子の手懐け待ちだろうか。
「「殿!」」
「まあ、関羽様、張遼様! そのような濡れたお体でどうされたのです?」
先に名を呼ばれたことに気を良くしたらしい関羽が、美膏をひと撫でしに歩み寄る。
殿の悲鳴が聞こえたゆえと、身を屈め見たこともない柔らかい表情でに話しかけている。
悲鳴と呟き首を傾げていたが、ああと声を上げた。
「水の冷たさに驚いてしまって、つい」
「狼に襲われたわけでは?」
「狼? ああ、あの子が手懐けてしまったようですね。お家に連れ帰っては駄目ですよ、荀攸様がまた困り顔をしますからね」
「ええー、こんなにかわいいのに」
「あの子は荀攸殿に疎まれているのですか? やはり私が引き取りましょう」
「張遼様、お気持ちだけで充分です。ふふ、せっかくのお顔が水浸しですよ」
が懐から取り出した手ぬぐいで、張遼の顔を拭く。
の匂いと温もりに顔が包まれる。
やはり今でも欲しいと、下ヒで呂布軍を飲み込んだ怒涛の水量と共に流したはずの劣情が蘇る。
流されたを救い、欲しいと乞い願ったのが関羽だ。
どちらも選ばれていない。
だが、関羽は今でも彼女を好いている。
そうでなければ、ある時は赤兎馬が慣れるまで。
ある時は劉備の妻たちの側仕えとしてなどと理由をつけてに会いはしない。
が自分以外の男に愛されていると知っている上で何の手も打たない荀攸は本当に策士なのだろうか。
何もせずともは必ず手元に帰ってくると思っているのならば、それはそれで恨めしい。
「ところで、皆様はなぜこちらへ?」
「おお、ようやく追いつき申した!」
「あら徐晃様! 本当に訪ねていただいたのですね。いかがでしたか、冷たくて心地良かったでしょう?」
「殿のおかげで武の頂が見えたでござる!」
「頂はどのような景色なのでしょう?」
「白く、冷たく、刺さるような・・・」
「さぞや過酷なのでしょうね・・・」
手渡された子どもと間違えているのか、膝にすり寄る狼の背を撫でながらがほうと息を吐く。
狼に代わりたいと思ったのは初めてだ。
濡れた体を拭くことを忘れ立ち竦んでいた関羽と張遼が、同時にくしゃみした。
「関羽様も撫でてみますか、狼」「う、うむ・・・」