私の想いは静かに仕舞いました
空も、川も、まもなく燃える。
逃げ惑う人々を追いかけるように炎はひと繋ぎにされた鎖を伝い甲板を這いずり回り、後に残るのは灰となった曹操軍の軍旗だけだ。
今ならまだ逃げられる。
何かしらの理由をつけて、後方に退がることはできる。
やるもやらぬも全ては自分の心次第だ。
徐庶は、目の前に現れた友人たちの進言に黙って耳を傾けていた。
「焼け落ちるとわかっていて船に留まる必要はありません。元直、劉備殿の元へ戻ってくるべきです」
「あっしらにとっても、策を読めちまうお前さんが曹操軍にいるのは気味が悪くてね」
「・・・確かに今の状況なら、俺は劉備殿の元へ戻ることができるだろう。だが、できない。俺はを置いてはいけない」
と耳にした瞬間諸葛亮の顔が歪むのを、徐庶は見て見ぬふりをした。
彼がのことをどう想っているのか知らないほど鈍感でも、凡庸でもないつもりだ。
彼の感情に対して反応することが嫌だった。
諸葛亮がふうと小さく息を吐く。
ただそれだけで、徐庶はこの場において優位に立てたような気がした。
「殿についてはこちらで差配します。女人ひとり行方をくらませる程度、訳はありません・・・」
「無理だ、には良くない交友関係ができている。相手は孔明よりもずっと性質が悪い」
「殿はあっしみたいな変わり者にも分け隔てなく接してくれる方だからね。何かの間違いでその良くないご友人も劉備殿の元に引っ張ってきてくれないもんかねえ」
「やめてくれ、彼女を巻き込みたくない」
無理なものは無理と早々に悟ったホウ統が去り、諸葛亮殿とふたりきりになる。
戦場で敵と長居はしたくない。
これ以上話すことも何もない。
徐庶は黙ったままの諸葛亮に背を向けると、自陣へと歩き始めた。
殿は!
ようやく絞り出された諸葛亮の苦しげな声に、振り返ることなく何がと尋ね返す。
ああ、孔明もこんな声が出せるのか。
友の友らしからぬ焦った声音に、徐庶の口元が緩んだ。
「殿は息災ですか」
「ああ、慣れない土地で彼女なりにがんばっている。あの時彼女の強引さに負けて良かったよ」
「そうですか。・・・元直、戻ってきて下さい。劉備殿の天下にはあなたの力が必要です」
「俺を買ってくれるのは嬉しいけど、その話はもう終わりだ。俺は許昌に戻るよ。君ももうのことは諦めてくれ」
「諦める、とは」
「俺からも守れなかった孔明が、国から彼女を攫えるわけがないだろう? そうでなくとも、彼女を危険に晒すような真似をするのなら俺は君を倒すことに躊躇わない」
俺が知らないわけがないだろう。
何も知らないのはだけなんだから。
それだけ言い残し、徐庶は改めて諸葛亮に背を向けた。
これから待ち受けるのは敗走で災難だというのに、心は晴れやかだ。
一言も口にせず顔に出さなかったからも感じたことはなかっただろうが、ずっと嫌だったものがある。
出立前の慌ただしいなか諸葛亮がに押しつけた真っ白な羽扇も、毟り取って捨ててしまいたくて堪らなかった。
友人から送られた餞別だからという理由だけで捨てずに持っているを悲しませたくなかったから、実行に移していないだけだ。
彼女の中に巣食う思い出を、残さず食い千切ってしまいたい。
異郷の地でが頼るべき存在は自分だけでいい。
「・・・私の心の内を暴くとは、やはり元直は侮れませんね」
これ以上友の言葉を聞くつもりはない。
諸葛亮の心情の吐露に、徐庶は聞こえないふりをした。
ああ、早く彼女に逢いたいな