私にとっても運命でした
あなたが諸葛亮殿? ふ~ん。
戦禍を避け荊州へ逃れた諸葛亮が人生で初めてまともに接した妙齢の娘は、だった。
手入れが行き届いていない少々薄汚れた隆中の庵の入口にしゃがみ込み草むしりをしていたは、陽の光に照らされきらきらと輝いていた。
顔についた土の存在に気付いていないのか、ほんの少し胡乱げな表情を浮かべたまま立ち上がった彼女の頬に手を伸ばしたのも、その日が初めてだった。
ぺしりと手を叩き落されたのは、後にも先にもこの時だけだったが。
「黄家のおじさんから聞いてたけど、うーん・・・」
「何かご不満が?」
「いや、ここ結構荒れてるからそんなひょろひょろした体で普請できるのかなって」
「雨風さえ凌げるのであれば、如何ようにもなりましょう」
「ま、こんなだから家賃は値引きしたげる。ついてきて!」
今、聞き捨てならない言葉を聞いた気がするが風の悪戯だろうか。
無償で提供されるつもりはなかったのでさすがに手土産は持ってきたが、継続的に徴収されるものがあるとは黄承彦も言っていなかった。
そも、彼女は何者だろうか。
自分のことを誰とも名乗らない謎の眩い娘の後に続き、新たな住居に入る。
ああ、この人は陽の下でなくても輝いているのだな。
諸葛亮は光が差し込まない薄暗い室内に明かりを灯している娘の整った横顔を見つめ、なんとなく気恥ずかしくなった。
生まれてこの方、女人を見て淡い感情を抱いたのも初めてだった。
「屋根の穴はこないだ水鏡先生とこの門下生たちに塞いでもらったから大丈夫! 壁はまあ、見つけたら庭に置いてる板で直してね」
「あなたは?」
「私は違うとこに引っ越すから気にしなくて平気!」
「そうではなく、あなたのお名前は? 黄承彦殿とのご関係は?」
「え~、何も聞いてないの~? 私は、黄家のおじさんは当時ここを言い値で買い取らされた可哀想な被害者で、私はボロ庵にくっついてたおまけ」
自己紹介にしてはなかなかに独創的だ。
黄承彦との関係が何かしらはあることはわかったが、安心はできない。
庵に何が仕掛けられているかわかったものではない。
この諸葛孔明、今はまだ何者でもない一書生を名乗ってはいる。
しかし、若輩のうちに龍の命脈を絶っておこうと考える不届き者がいてもおかしくはない。
鄙びた田舎に咲くには美しすぎるも、ひょっとしたら命を狙う凶者が放った毒かもしれない。
乱世は人を狂わせるのだ。
己が野望のためなら罪なき民を虐殺する梟雄を、諸葛亮は知っていた。
「差し支えなければ、黄承彦殿を欺いた庵の元の持ち主を教えていただけますか?」
「わかんない、私小さかったから」
「そうですか」
「小さい頃から私可愛くてね、黄家のおじさんもは可愛いなあって月英殿、月英殿はおじさんの娘さんで超頭がいいんだけど、良くしてくれたんだ」
「そうですか」
「今度おじさんと、あと水鏡先生のとこに案内したげるね!」
「ありがとうございます」
「あとあと」
「殿。申し訳ないのですが、早速家を片付けたいのでご挨拶と散策はまた次回」
極めて自然に嫌味なくとの約束を取り付けることができた。
どの書物にも書かれていなかったので上手くいくか疑問だったが、はにっこりと笑って頷いてくれた。
が笑うと、室内も明るくなった気がする。
じゃあ明日迎えに行くね、諸葛亮殿!
ひらひらと大きく手を振り庵を後にするの後ろ姿を見送る。
明日までに、少しでもここを綺麗にしておこう。
できればが長居してくてれるように。
諸葛亮は腕まくりをすると、よしと小さく気合を入れた。
いっそ毒ならよかったのだ。そうすれば、私は迷うことなく狂えたのに