隣の花園は美しい




 初めて出会った時、その人は男の妻だった。
せっかく同僚になったのだからと気を利かせて設けてくれたささやかな歓迎会にいたのが、だった。
軍には慣れましたが、姜維様。
小ぶりな酒器と盃を手に隣席にやって来たの顔をひと目見た瞬間、体にびりびりとした衝撃が走った。
体の中心から炎を灯されたように、一瞬で熱くなった。
出逢うべくして出逢った人だと直感が告げていた。



「姜維様?」
「あ、あなたは・・・」
と申します。あの、私の顔になにか・・・」
「い、いえ、そのようなことは! ・・・申し訳ありません、殿があまりにも美しくて、つい・・・」
「まあ!」



 不安げだった顔がぱあと明るくなり、くつくつと控えめな笑い声が上がる。
姜維様のような美丈夫に褒められるなんて、なんだか不思議で。
冗談めかして話すに、嘘ではありませんと熱弁を振るう。
姜維は注がれた酒を一気に飲み干すと、の手を握った。
軍閥に身を置いているので男所帯に慣れているのだろう、が笑顔のままことりと首を傾げる。
歳は少しの方が上のように思えるが、そんなものが些事に思えるほどは瑞々しく美しい。
姜維はの虜になっていた。



「ははは、姜維殿は妻がすっかりお気に入りのようだな」
「妻・・・?」
は私の妻なのだ。かわいいだろう。出逢った時からずっと、今日まで愛おしい女だ」
「ふふ、あなたったらまたそんなことを仰って」
「姜維殿も早くのような佳き妻を迎えるといい。諸葛亮様の悲願を叶えるためにも、内も外も万全を期した方がいい」



 捕らえていたはずなのにいつの間にか剥がされてしまった手を、の夫が撫でている。
触れられて心地良いのだろう、もうっとりと目を閉じている。
ただ目を閉じているだけのがとても艶めかしく見えて、姜維は思わず目を背けた。
の淡く色づいた唇は、既に男のものだ。
唇だけではない。手も足も、清楚な衣に隠されたのすべてが他人のものだ。
彼女こそが運命の佳人だと思っていたのに、現実は甘くない。
だが相手は人妻だ、叶えていい想いではない。
姜維は再び酒を岬った。
注いでもらった時よりも苦かった。


















 次にと出逢った時、は独りだった。
夫だった男は軍律違反を犯し死罪となっていた。
諸葛亮に長く仕え、諸葛亮もまた長く愛していた男だったため、男の身内に累が及ぶことはなかった。
はどうなるのだろう。
ほんの一瞬で終わった恋を頭の片隅で思い出しながら、姜維は諸葛亮に問いかけた。



は郷に帰るそうです。残ってほしかったのですが、私に止める力はありません」
「郷とは何処ですか?」
「洛陽とも長安とも。・・・元は曹操軍の捕虜でした。死んだ男がの身上を案じ妻として守ったのです、私から」
「丞相から?」
を殺してしまえと当時の私が命じました。にとって私は、誰よりも悪党でしょうね」



 だからは、彼の妻にしては若かったのだ。
敬愛する諸葛亮の意向に逆らってまでを守りたくて、愛したくて、彼はの夫になったのだ。
にとっては彼がこの国の全てだったのだ。
身も心も何もかも捧げた男が死んだ今、蜀に残る意味はない。
郷に帰ると言っても、止められる人はいない。
だが諸葛亮は残ってほしいと言っている。
自らの裁きで死んだ男の家族が国を出るのは、事情はどうであれ外聞が悪すぎる。
だったら止めるべきだ。
それが諸葛亮の秘めた願いならば、叶えるべきだ。
姜維は伝え聞いた情報を頼りにの邸を訪ねた。
しんと静まり返っていて、人がいる気配を感じない。
丁寧に手入れされていた名残を残す庭園も、少しずつ荒れつつある。
がたりと邸内から物が倒れる音が聞こえ、姜維は室内へ駆け込んだ。
女ひとりで住むには広すぎる邸宅だ。
家主が気付かぬうちに不逞の輩が入り込んでいてもおかしくはない。
殿と大声を上げながら、音がした部屋を探し当てる。
誰ですか。
鋭い声で誰何する声が聞こえ、姜維は部屋の戸を荒々しく開いた。
亡夫の持ち物の片付けをしていたらしく、座り込んだの周りには質素だが色とりどりの服が散らばっている。
まるでが花園の真ん中に佇んでいるようで、姜維はくらりと目眩がした。



殿!」
「何者ですか」
「ああ良かった、殿。ご無事ですか、物が倒れる音がしましたが何かありましたか」
「姜維・・・様・・・? いったい何のご用でしょうか」
殿にはここに残っていただきたく、引き止めに伺いました」
「私がここに留まる理由はもはやありません。諸葛亮様にもお話はしております」
「私が困ります。行かないでほしい」
「なぜ」
「あなたが好きだからです。ああそうだ、歓迎会でお会いした時からひと目見て心惹かれていた。やっと、やっと私の想いが叶う」
「何を仰っているの・・・?」
「出逢った時からずっと今日まで、いや、これからもあなたを愛おしく思っている」



 の喉からひゅうと、空気を飲み込む音が聞こえる。
こちらの思惑が伝わったのか、及び腰になったの腕を強くつかむ。
あの晩は剥がされたが、彼女との逢瀬を阻む者はもういない。
死んだ夫も言っていたではないか、内も外も万全を期した方が良いと。
やめてとが悲鳴を上げる。
ああ、やはり彼女が佳き女だったのだ。
姜維は、持ち主がいなくなった衣の上に押し倒されたに顔を埋めた。




これからは私が守ってあげますからね



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