暗がりの強がり
最後にと話したのは、宮殿の劉禅の御前だった。
どこから引っ張り出してきたのか古ぼけて毛羽立った羽扇を武器代わりに持ち、宮殿外の応戦に打って出た星彩の代わりに劉禅の隣にが立っていた。
彼女がいたところで、劉禅に降りかかる剣戟を撥ね退けることはできない。
誰よりもがわかっていたはずだ。
それでもが側に立ち、そこにいることを劉禅や星彩が許し託したのには、きっと意味があったのだと思う。
牢の中は考え事が捗る。
何もすることがないからだ。
姜維は、月の光がわずかに一筋差し込むだけの牢獄で残してきたを想った。
「はどこにいる?」
司馬昭の最側近と呼ばれる男が、劉禅にそう尋ねていた。
蜀の降伏に伴い魏軍の兵たちに取り押さえられた体を震わせ、殿に手出しはするなと絶叫した。
買充という男が叫ぶこちらに蔑むような視線を寄越し冷ややかに笑っても、何の抵抗もできないことが悔しかった。
には何の罪もない。
兵ですらない、ただの一国民だ。
の居所を聞き出した買充が、宮殿の奥へ進んでいく。
物が倒れたり暴れたり、悲鳴のようなものは何も聞こえなかった。
の消息はそれきり、生きているのかどうかすら教えられないままだ。
自分と関係を持った女として辛い目に遭っているのならば、彼女には悪いことをした。
あれほど妻にはならない、子も産まないと頑なだったを強引にその座に就けようとした、当時の自分の行動を悔やんでも悔やみきれない。
拒まれたことに対して意固地になっていたのだ。
はあの時、どんな表情をしていたのだろう。
愛しい女の顔すら見えなくなっていたほど、視野が狭くなっていたらしい。
「よう、姜維」
「・・・・・・」
「そう固くなるなって。蜀は降伏した、民の命は保証する。お前も何もしなければ晴れて平民だ」
「お前たちの言うことには信用が置けない」
「ま、そう言うとは思ったけど。そういえばお前、を心配してたんだって? 好きなのか、あいつが」
「殿は私とは何の関わりもない。彼女を虐げるようなことはしないでほしい」
「わかった、たっぷり可愛がってやるから心配すんな」
「彼女に触れるなと言っている!」
ねえねえ姜維殿、聞いてる姜維殿、お願い姜維殿。
が事あるごとに気軽に呼ばわっていた声が、懐かしく脳裏に響き渡る。
諸葛亮を亡くし悲しいはずなのに明るく振る舞っていたが、本当はとても繊細だと知っている。
度重なる北伐で疲弊していく国を憂い、体を張って出陣を止めようとしていた健気さを知っている。
見たいものしか見えなくなっていたこちらに、もうやめてと縋るように懇願していた聡明さを知っている。
のためになることを最後まで何もしていない。
姜維は鉄柵の向こう側で笑っていた司馬昭に掴みかかった。
おぉこわ、と好きな女とよく似た軽口を叩く男がこれからを蹂躙するのかと考えたら、鉄柵すら捻じ曲げられそうな気がした。
助けて姜維殿と呼ばれても、もう側に行くことはできないのだ。
放たれた後も、きっと。
彼女は自分に近すぎた。
に近付きすぎてしまった。
「殿を泣かせるような真似をすれば、私はお前を殺す」
「姜維・・・、お前ら本当に何も知らないんだな」
「黙れ! お前が殿の何を知っている。彼女は丞相が実の娘のように慈しみ育て、蜀の誰からも愛され・・・」
「それはもちろん感謝してる、諸葛亮夫妻はよくやったよ。父上よりもよっぽど父親だったと思う」
「何を言っている・・・?」
が泣くか笑うかはお前次第だ。
そして俺は、を悲しませたくはない。
真顔になった司馬昭が、それだけ言い残し牢を後にする。
の生死は自分にも懸かっている。
姜維は再び無人となった牢で、力なく膝をついた。
あの女はやめておけ、これは忠告だ