味覚の攻防戦
果物は兄妹共通の好物らしい。
これも美味しい、あれも美味しゅうございましたと穏やかな表情で品評する姿はとても美しい。
殿がもっとも美味しそうですなと思わず口走ってしまう程度には、彼女の立ち居振る舞いは本当に素晴らしい。
司馬懿はが口にしている極彩色の肉まんを見下ろした。
果物が好き、可愛らしくて大変結構。
肉まんが好き、同じく大好物なので非常に喜ばしい。
果物味の肉まんも好き、理解が及ばない。
なぜ混ぜてしまったのだろう。
いったい誰が、曹魏に住まう人々の中でも随一の美食を堪能し続けていたであろうの味覚を狂わせてしまったのだろう。
これだから江南の田舎者どもは、食にも品格があるとわからないらしい。
早急に味覚を元に戻してやらなければ、まだあと30年は息災でいてもらうためにも健康に配慮した美食を食べさせなければ。
「殿は心の底からそれらを美味いと?」
「ええ、とても」
「果物と肉まん、分けて食べた方が美味しいとは思われませんか?」
「様々な味の楽しみ方ができる素晴らしい食材です。わたくしはどちらも好きです」
「元姫・・・、昭の嫁が作るあれはいかがですか?」
「とても美味しゅうございます。張春華殿から直々に手ほどきを受けたものと伺いました。司馬一族の味ですね」
良きご息女を迎えられたのですねと息子の嫁を褒められ、司馬懿は大きく頷いた。
誰もが才女と認める元姫だ。
ある日突然舅が連れてきたにも瞬時に適応し、卒なく対応している。
父上は今度は曹操殿のご息女好きになっちゃったんですかと驚きのあまり絶叫した息子とは大違いだ。
内密にするという意味を、次男はまだ知らなかったのかもしれない。
「あなたは、わたくしを悪食だと思っておられるのでしょう」
「そこまでは」
「先日、司馬師殿にこれは肉まんとは認めないと宣告されました」
「師め、余計なことを・・・。息子が大変失礼した、あれは肉まんに関して神経質なきらいがある」
「ご両親の教えがよく受け継がれている良きご子息と思います。ですが・・・」
「何か」
「食の好みが合わぬ以上は共に過ごすことはできないとの考えに至りました」
「次はその手で来るとは考えましたな。聡明な公主と名高かっただけはある」
は様々な手を用いて包囲網から逃げようとしている。
どうすれば司馬一族、いや、司馬仲達が張り巡らせた策と柵から突破できるか一生懸命考えている。
事を荒立てない穏便な方法で距離を置こうとしている。
馬鹿なことをすると高笑いしたくなるのを懸命に堪え、のささやかな抵抗に丁寧に対処している。
何をしようと逃がすはずがないのに。
逃がすほどに易しいのなら初めから連れてきてなどいないのに、彼女は情の本当の深さを知らないらしい。
「やはりいけませんか・・・」
「師には言って聞かせますが、殿も無理にこれらを好きと言い通す必要ももうございませんぞ」
「いえ、これらは本当に好きです」
「お言葉ですが、かなり癖のある味です」
「確かに、さっぱりとした味わいが癖になると夏侯覇殿が仰っていました」
「・・・まさかご自分で作られたのですか」
「洛陽のどこにこれが売っていましたか。なければ作るしかありますまい」
「なぜ私には饗して下さらぬのです」
「ですから先程から食の好みも合わないと申し上げたではありませんか。曹家を危険視するのであれば、わたくしも河北へ追いやれば良いだけのこと」
そこなら誰も、わたくしの味を糾弾することもありますまい。
そうきっぱりと言い張るの顔は真剣そのもので、今回は策でも時間稼ぎでもなく、心の底からの進言だったのだと初めて気付く。
不味いと直言していないだけで、かなりの間を様々な方法で傷つけていた。
深いのは情なんて甘いものではない、が負った心の傷だ。
突き放されたの本音に対する言葉が出てこない。
今更何を言えばいいのかわからない。
司馬懿はてきぱきと卓の上の肉まんを片付け部屋の奥へ辞したの背中を無言で見送った。
「大変言いにくいですが、奥方は相当にお怒りかと」「であろうな・・・」