星に誓いを 人に祈りを
もしも、と考えることが多くなった。
齢を重ね心が脆くなった部分がある。
かつては強気でいられた事象に対して時々、ふとした瞬間にとてつもない不安に襲われる。
諸葛亮は幕舎で妻とにこやかに夕飯を口に運んでいるへ視線を移した。
初めこそ非力で何もできないを連れて来てしまったことを悔やんだが、今となっては彼女の無謀な試みは正しかったと言える。
成都へはおそらくもう帰れない。
体がそれだけの時間を耐えてくれない。
成都で帰りを待ち続けていたを、北伐の件で二度も泣かせたくない。
彼女は泣いてくれると至極当たり前に思っていることが滑稽で、信じたがっている自身が哀れだった。
娘のように可愛がってきただが、相手が同じように思ってくれているのかは最後まで訊けずじまいだ。
知りたくない答えが世の中にはある。
訊きたくとも訊けない質問が胸の中にたくさんある。
胸の中から一生出ることなく、訊く相手を喪ってしまったこともある。
「虎戦車いっぱい増えてましたね」
「ええ、が木材を集めてきてくれたおかげです」
「えへへ、実は一頭だけお髭描き足しちゃった」
「まあ、気付きませんでした! まだ壊れてないと良いのですが」
「さっき様子見に行ったらまだいました」
「それは後で見に行かねばなりませんね・・・。ですが、軍用品を汚してはいけません」
最前線でも自由奔放に過ごすをやんわりと牽制し、空いたままだった席に就く。
虎戦車の整備をしていたとは初耳だ。
虎戦車の進軍路には魏軍の伏兵も多く潜んでいたが、が無事で良かった。
司馬一族の者はいなかっただろうか。
万が一の姿を見ていたら、あの男はどうしただろう。
が父親と再会してしまったら、彼女はどうしただろう。
もしも、と考え諸葛亮は眉間を指で抑えた。
また弱気になっている。
家族の前では平静でいようと決めているのに、我慢ができなくなるほど弱った体が憎かった。
「孔明様?」「諸葛亮様!?」
「心配はいりません、少し気が弱くなっただけです」
「孔明様・・・」
「月英、水を汲んできていただけませんか」
「あ、それなら私が」
「いいえ、孔明様を見てあげて下さい」
察した月英が外へ出ていき、と2人きりになる。
2人になるのは珍しい。
諸葛亮は、大丈夫と声をかけながら背中を優しく撫でるの手にそっと触れた。
柔らかく傷ひとつついていない美しい手だ。
武器を握らせたこともほとんどなく、ひたすら丁寧に育ててきた自負がある。
劉備や関羽、張飛の子どもたちに少々乱雑に可愛がられ連れ回されているのを、いつもハラハラしながら見守っていた。
今までのとの生活には何の悔いもないというのに不安になっている。
を信じきれていない。
愛されているという自信がない。
そもそも引き取った時から彼女に愛されていい資格などなかった。
親元へ戻そうと思えば容易くできた選択を、あの日寝ぼけ眼だった幼いを見下ろした瞬間に消し去ったのは他でもない自分だ。
に恨まれてもおかしくないことをしたと気付いたのはさて、いつだったろうか。
つい最近のことだ。
自分にとってだけ都合の良い正義と慈悲を振りかざして、父親と引き離されたの気持ちを慮ったことすらなかった。
「、私はもう永くありません」
「そんなこと言わないで下さい。ここ寒いし殺風景ですもんね、成都に帰ってちょっとゆっくりしたら弱気も治りますよ」
「本当です。私はおそらく成都には帰れません」
「そんなに悪いんですか・・・」
「、あなたはどうしますか?」
「え? どうって?」
「向こうの陣にはあなたのご家族がいます。帰りますか?」
えーっと、と言葉を濁したの手が背中から離れる。
何を言おうか懸命に言葉を探しているようで、行き場を失くした手が虚空に無意味な絵を描いている。
を試し、困らせている。
彼女が遠慮をする必要はどこにもない。
庇護者がいなくなれば国へ帰る、それは正しい。
決して口にしてはいけないが、その家はおそらく成都よりも安泰だ。
「私がここに残った方が諸葛亮様たちが無事に撤退できるんなら頑張ります」
「そういう意味で言っているのではありません」
「でも魏軍に知り合いいないんで、お役に立てるかな・・・」
「、違います」
「ていうか私も成都に一緒に帰りたい・・・。私、諸葛亮様と月英様を勝手に家族と思ってたんですけど」
「ああ、あなたは私の、私たちの大切な」
弱気でなかったら、言葉の続きが言えていた。
次の機会にまた言えばいいと前向きになれなかったのは、次がもう来ないと諦めていたからだ。
諸葛亮は立ち上がると、一度は離れてしまったの不安げな顔を両手で包み込んだ。
ほっとしたのか、にっこりと微笑んだがお髭と呟く。
虎戦車の話だろうか。
無事ならば後での傑作を3人で見に行きたい。
まだそのくらいの体力は残されているはずだ。
「虎戦車に描いたお髭、諸葛亮様のお髭とそっくりに描いたんです!」
「関羽殿の髭の方が描き応えがありますよ」
「関羽殿は見たことがないのでわからないです。でも上手に描けたんですよ~」
「では今回の落書きは不問に処しましょう。とはいえ、現場は見に行かねばなりませんね。月英を呼んできて下さい、食事を済ませたら3人で行きましょう」
「諸葛亮様歩けますか?」
「を背負えるように鍛えた筋力をお見せする時が来たようです」
本当にと、がきらきらと瞳を輝かせる。
膝の上にも乗せてあげますと続けると、がきゃーと歓声を上げる。
が喜ぶことをなんでもしてやりたい。
が蜀にいて良かった、これからも蜀で生きたいと思えるようにたくさんの思い出をつくってやりたい。
国力も財力も豊かさも、彼女の生家に比べたら何もかも劣っている。
内政に注力し、軍を進めるたびに痛感する圧倒的な差だ。
だが、が遠い先の時代に過去を振り返った時に思い出してくれる日々はこちらの方が多いはずだ。
自分亡き後も娘が健やかにのびのびと山野を散策できますように。
いつの日か彼女が自らの口で真実を告げられる人ができますように。
諸葛亮はの頭を優しく撫でた。
頭越しに見えた月英が、声を押し殺し静かに泣いていた。
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