私の夢はお前の悪夢
彼女と初めて出会った日の出来事を忘れたことは一度もない。
半ば脅迫に近いかたちで曹操軍への出仕を強制されて間もない頃、長閑で退屈で刺激も新鮮味も味気もない、平穏だけが約束された住居街にやって来たのが徐庶だった。
かつて劉備に仕え、その才を曹操に見初められ策謀をもって軍に迎えられた不運な智者。
腹の中身はどうであれ、才子とあれば取り立てる曹操らしいと初めこそはその男を哀れんだ。
陰鬱な表情が特徴的な男が、真の才をこの国で発揮する日はついぞ来ないだろう。
確信めいた憶測で近所の同僚を見つめていた。
「えー! お義母様亡くなったってことはいきなり元直と同棲!? やだーどうしよう! 何の準備もできてない!」
「、声が大きいよ」
「はっ、やだ私ってばついつい牛と馬と蛙しかいない隆中と同じ声量で喋ってた」
「ははは・・・。君は本当に元気だね。どこにいても変わらなくて俺はほっとしたよ」
元気と評するには粗雑で粗忽すぎる女は、驚くほどに美しい人だった。
粗忽な女の乱暴な羽扇の扱い方を叱責しながら、しょんぼりと項垂れるの白い項をいつも見下ろしていた。
隆中とかいう荊州の長閑な田舎からやって来たは、その地味な衣服すら極上の絹に見せてしまうほどに輝く女だった。
なんとなく面白くなくて、徐庶が躊躇っていることを口実に「徐庶殿の邸の侍女」呼ばわりしていたのは、今になって思い返せば彼女に付け入る隙を作りたかったからだろう。
がこちらに害意なく懐いていると知ってからは悋気が強い妻に悟られぬよう、その悋気がに及ばぬよう、細心の注意での懐柔に取り組んだ。
もっとも、触れれば触れるほど絆されていったのはこちらだったのだが。
「それで旦那様、ご近所の方とは今後どのようになさるおつもりで? かわいそうに、信頼していた近隣の男、しかもご自分の夫の同僚に襲われて」
「徐庶殿には経緯は説明した。・・・には金輪際二度と近付かぬよう、夫君に誓いを立てされられた」
「当然です。殿、あまり頭は良くないようだけれどとても人の好い方だったわ。子どもたちの世話に明け暮れる私を気遣ってくれたし、次にどんな顔をして会えば良いのやら」
「・・・・・・」
「旦那様?お顔の色がとても悪いようだけど?」
「まだ決まったわけではない」
美しい女はどこまでも美しかった。
やめてと叫ぶ声も、雷鳴轟くなか救いを求め宙を泳ぐ手も、彼女につけられた夫からの愛のしるしすら美しく、そして劣情を激しく刺激した。
彼女を覆っていたすべてを塗り潰し、塗り替え、達成感に全身が浸っていた。
素知らぬ顔でを邸に送り届けた時の徐庶の絶望と怒りでぐちゃぐちゃになった表情は、自尊心と優越感を存分に満たした。
事態が知れても内々のうちに処理されたのは、良くも悪くもここが曹操軍下だったからかもしれない。
徐庶は表面上は極めて冷静に対応し、妻の心身の安定が第一という体を貫いた。
彼もまた、自身が不在の時に起こってしまった妻の悲劇に何かしらの責任感を抱いていたのかもしれない。
徐庶がどれだけ注意を促しが警戒したところでこちらは策の実行を止めるつもりはなかったのだが、それは心の奥底に仕舞っておくべき見解だ。
妻の春華も今は大人しくしているが、いつ敵意がに向けられるかわからない。
守るべきものが増えた。
そう柱の影でほくそ笑んでしまう自分は、なんと心が黒いことだろう。
いっそもうひとり守るものが増えればいい。
そうすれば今度こそ、間違いなくを手中に収めることができるのにと、にとっては更なる悪夢でしかない甘い夢を抱いている。
「人の欲とは恐ろしいものよ・・・・・・」
「旦那様が二度と余計な気を起こさないように、徐庶殿には奥方を仕舞っていただこうかしら」
「そうだな、ゆっくりと体を休めた方が良かろう。万一があっても困る」
の体調が悪いと、何も知らない徐庶の友人が不安げに話していた。
司馬懿はひっそりと静まり返った徐庶の邸へ視線を向けると、妻手製の肉まんを手に取った。
「え~息子さんお2人ともご両親にそっくり! 私も元直に似てほしい・・・!」「うふふ、大丈夫よ」