得意技は水上走り




 床掃除をしようと思った気概は認めるが、手際が悪い。
もう少ししっかりと布を絞ってほしかった。
は、なめくじが這いずり回った後のような床を見下ろし額に手を当てた。
なめくじもとい邸の主は、罰が悪そうな顔をして濡れた衣を脱いでいる。
だからそこで脱がないで!
の叱責に陸遜の肩がびくりと跳ね上がった。



「脱ぐなら外か浴場にして下さい」
「すみません、あまりにも居心地が悪く耐えられませんでした」
「戦場で血まみれずぶ濡れになる機会もあるでしょうに・・・というよりもなぜ、出仕しただけで全身濡れ鼠に?」
「申し訳ありません、場所を変えます」
「ああ、だからそうやって濡れたまま歩くとまたなめくじの道ができるでしょう、もう!」
殿は動物に喩えるのがお上手ですね・・・」



 濡れる部屋が陸遜の私室であれば文句は言わない。
むしろ小火の危険が減ると思えば、どうぞどうぞと笑顔で送り出していた。
だがそこはいけない。
その部屋は寝所だ、濡らされては困るものがたくさんある。
は濡れた床を乾いた布で拭きながら、陸遜がずぶ濡れになってしまった理由を考え始めた。
考え事をしながら歩くことはあるだろうが、それで泉や水路に足を滑らせるような馬鹿ではない。
綺麗好きの性分なので、水浴びをするなら服は取り払うはずだ。
桶ごと水を浴びせられるにしては随分と濡れていた。
いったいどんな粗相をすれば部屋を水浸しにするほどの事態を引き起こすのか、どうやらの常識では考えられないことが陸遜の身に起こっていたらしい。
命があっただけマシだという思考に切り替えるべきかもしれない。



殿、代えを持ってきていただけませんか」
「ああ、そうでした」



 言われたとおり浴場で脱いでいたらしい陸遜の元へ、ぱりぱりに乾いた新しい服を持っていく。
受け取った服はみっしりと水分を含んでいて、よほど天気が良くなければ乾きそうにない。
服そのものに傷はないかと検めているを見下ろしていた陸遜が、すみませんと小さく呟いた。



「私も後で拭きます。なめくじの汚名を返上しなければ」
「もう終わりました。上から下どころか、中まで全部こんなに濡れて・・・。お風邪は召されていませんか?」
「はい、しばらく火に当たっていたので」
「こんなに濡れていても着火はできるんですか・・・」
「髪から水が垂れて困難を極めましたが、良い経験でした」



 胸を張って言われても返答に困る。
少々濡れていようと火災の危険はあると知らされてしまい、海綿が水を吸ったように不安だけが増大する。
心休まる時がない。
不安な時は私に身を委ねて下さいと陸遜は言ってくれるが、海藻並みに潮の香りが漂う今の彼の胸に頬を寄せたくはない。
まさかとは思うが、暑さに負けて海に飛び込んだのだろうか。
ひと泳ぎするなら誘ってほしかった。



「ひょっとして泳いできました?」
「だと良かったのですが・・・」
「ですよね、泳ぐなら脱ぎますもの。会稽の飛魚と呼ばれた私だって泳ぐ時は軽装でしてよ」
「どうやら私は会稽の飛魚に教えを乞わなければならないようです」
「伯言殿、あなたまさか」



 戦闘中に船から落ちたらどうするのだ。
敵は魏軍でも山越族でもなく、そこら中に流れる川と海だ。
彼の命は本当に危険に晒されていた。
三国最強の水軍を統帥する都督が泳げないなど、誰が聞いても信じてくれないから辛うじて保たれている矜持ではないか。
大海原に投げ出された時、己を助けることができるのは結局は自分なのに。



「伯言殿」
「結構です」
「いいえ、私、夫が溺死して未亡人になるなんて嫌です。次は泳ぎの名手に嫁がざるを得ないではありませんか」
「そんな死に方はしません。孫呉の船は頑強です。飛躍した話をするのが飛魚と呼ばれた所以ですか」
「そういう奢りや自信が破滅を呼ぶのです。お任せ下さい、会稽の水天女と呼ばれた私の手にかかれば溺死だけは免れることができるはず!」
「飛魚って出世するんですね・・・」



 夫思いなのは嬉しいが、時折見せる猪のような突っ走り方はいただけない。
それを海上でも実践されたら、泳げないこちらは縋るべき手を見つけられないまま沈んでしまう。
まずは、どうすればの水泳講義から逃れることができるか策を練らなければ。
の天女のような白い顔を見つめていた陸遜は、ぶるりと体を震わせると大きくくしゃみした。




「実を言うと、あいつはこの俺よりも泳ぎが巧い・・・」「なぜ朱然殿が知っているのですか?」



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