流れ星の置き土産 序
あれも、これも。溢れるほどの将星が、私を見ていてくれている。
吹きすさぶ風の音に交じって、人の声が聞こえた気がした。
この辺りの集落は既に賊と董卓軍に蹂躙し尽くされた後で、人が生きていけるような環境ではない。
廃屋のひとつひとつを覗いたわけではないので断言できないが、人のかたちをしているものは人ではなかった。
人としての尊厳を踏みにじられたようなそれらをたくさん見た。
だから今聞こえたものもきっと、いつか誰かが聞いたかもしれない聞くことができなかった声だ。
それもそのはずなのになぜだろう。
声、しかも泣き声が次第に大きくなってきた。
「いやいやいやいや、これ気のせいじゃないだろ。な、惇兄も聞こえたろ?」
「随分とけたたましい泣き声だな。ちっ、どこからだ」
一度人の泣き声とわかってしまえば、放っておくこともできなくなる。
今にも壊れてしまいそうなあばら家のどこに声の主が潜んでいるのか、泣き声を喚かせる原因に武器を構えながら耳を澄ませる。
あっちから声がしやすぜ、殿。
誰よりも早く声の方向を指し示した典韋に、曹操が無言で頷く。
一足先に現場へ駆けていく典韋の後を追う間にも、泣き声はますます大きくなっていく。
間に合ってほしい。間に合わなければならない。
この曹孟徳の前で、無辜の民をみすみす殺させるようなことはさせない。
うわあああああん! ひときわ大きくなった泣き声に、曹操は駆ける足を早めた。
かつて董卓を殺そうとして、殺し損ね全力疾走したこの足が、今は見ず知らずの小童を救うために走っている。
人の考えなど紙一重だ。
曹操は前方から響く典韋の怒声に眉をしかめた。
どうやら間に合った命と間に合わなかった命があったらしい。
悪来。曹操の声に典韋はすまねぇ殿と呻き声を上げた。
「わしとしたことが、間に合わなかった・・・」
「董卓軍の残党が人攫いとはな。ふん、曲がりなりにも官軍を名乗っていた連中はこのざまか」
「かあさま、かあさま、うわあああああん!」
「ふむ・・・、この子の母親を助けることはできなんだか。悪来、子に怪我は」
「見たところはなさそうですぜ」
「そりゃそれだけわんわん泣けりゃ元気だろ。ちっこいのによく泣くもんだ」
亡き母の血飛沫を浴びたまま、典韋に抱きかかえられえぐえぐと泣き続ける子どもの顔を覗き込む。
見た目だけならば人攫いよりも典韋の方がよほど恐ろしいのだが、ぎゅうとしがみついたまま離れようとしない。
周囲を見渡せば、母親の他にも数人の無残な死体が転がっている。
一気に家族を失い、いきなり乱世で独りぼっちになってしまったのだ。
今はまだ泣いていればいいが、ずっと泣いていては何も始まらない。
泣き暮らして生きていけるほど人の世は易しくも優しくもないのだ。
哀れだとは思うが、戦乱で孤児となったのはこの子だけではない。
子どもだけでも助けられて良かった。
それで終わるはずだと少なくとも李典は思っていた。
思っていたのは李典だけだった。
「かわいそうに・・・。俺も立場は違えど親を早くに亡くした身だから、この子の悲しみも辛さもよくわかる。殿、ここで救ったのも何かの縁です。せめて近くの村まで」
「犬猫じゃあるまいし、そんなのいちいち拾ってたらキリがないですって。なあ楽進、お前もそう思うだろ」
「不逞の輩を前にあれだけ逞しく泣き私たちを動かしたのです。将来恐れを知らぬ勇猛な将になるかも・・・」
「先を見据えすぎだろ。俺、こいつに係るとろくなことにならないって顔見た瞬間ピンときたんだよ。間違いない、断言できる」
「そもそも典韋を怖がってない時点で大物ってやつよ。おーよしよし、あのもじゃもじゃ頭はちょーっと意地悪なだけだからな、泣かない泣かない」
「意地悪って・・・ガキにその刷り込みはあんまりだろ!」
典韋に抱かれたままむずかっている子供を泣き止ませようと、大の男たちが群がり思い思いの方法で挑戦を重ねる。
奮闘の甲斐あってか泣き疲れただけなのか、ようやく大人しくなったことにほっと胸を撫で下ろす。
奇妙な光景を見せつけられて、こちらの調子が狂いそうだ。
ひょっとして殿、この間あのお人好しの劉備と言葉を交わした時に得体の知れない何かに当てられたのではないだろうか。
嫌な予感は多分にしたが、まさかこれほどに即効性と意外性に富んだものとまでは思わなかった。
李典は今や最後の希望となってしまった最終決定権者曹操を見やった。
孤高の将たちの慈愛に溢れた願いに流されることなく、難しい表情のまま唸っている。
やはり、助けたとはいえ見ず知らずの小汚いガキを連れ歩くなど認めるはずがない。
稀代の名馬ならまだしもだ。
「殿・・・、わしゃあどうすりゃいいんですかい。こっ、子どもに懐かれんのは慣れねえ・・・」
「ふむ・・・、皆、何か大きな思い違いをしているようだが」
曹操が子どもの顔をそっと撫でる。
くすぐったかったのかもぞりと頭が動き、胸に埋めたままだった顔がくるりと向けられる。
薄汚れてはいるが、じいと見つめてくる丸い瞳は間違いない、この子は。
「女童ぞ。もう少う優しくしてやらんか」
「そうそう、女の子なんだから泣くんじゃ・・・ってへっ、こいつ、いや、この子はお嬢ちゃん! いやあ、言われてみれば・・・・・・?」
「孟徳、お前の女好きもそこまでくると・・・」
「哀れよな。親兄弟を一度に亡くし。しかしわしらが拾うたことがこの子の幸運といえよう。よく見よ、我らがこれよりお主の新たな家族よ。泣かせはせぬ、そなたの親兄弟のような目に遭う者もなくそう。我らと共に来るか?」
難しいことを言っても、今の彼女にはわかるまい。
わかるようにするべく育て上げるのが家族となった者の務めだ。
彼女にも、もちろん死んだ親たちにも罪はない。
力なき彼らは皆、私利私欲のためだけに兵を動かし国を動かした挙句世をいたずらに乱した為政者たちによって虐げられた犠牲者だ。
そして、それら暴虐の徒を止められなかったこちらにも非はある。
親を喪った子ひとりを養ったくらいでは、それら気まずさは拭えない。
これまた勝手な権力者の自己満足だ。
曹操は子どもの返答を待った。
声を上げることが叶わなかった彼女が命懸けでつかみ取った、泣き声の次に発するべき意思表示を待った。
「お主の人生よ、決めるのはお主だ」
「・・・く」
「うん?」
「行く・・・」
か細くて小さな、けれども確かに聞こえた言葉に曹操はようやく頬を緩めた。
また泣かれては困ると案じていたが、よほど典韋の腕が心地良かったのか今は顔もすっきりとしている。
劣悪な環境で生きていたおかげで体は小さいし涙の跡で顔もぐしゃぐしゃだが、徹底的に磨き上げてどこへ出しても恥ずかしくない娘にしよう。
お世辞にも人相がいいとは言えない部下たちを前にしても怖がらないほど肝も据わっているようだし、多少の教育的指導にもきっと耐えられるはずだ。
そうとなれば忙しくなってきた、国へ帰ったら早急に諸々の手配をしなければ。
「ほ、本気ですか殿! あちゃーどうなっちゃうんだ俺、こんなガキと・・・」
「李典殿は何をそう嫌がっているのです。こんな小さな子が李典殿をどうこうするわけがないでしょうに・・・」
「楽進、放っておけ。たまにはこいつの勘とやらが外れることもあろうよ」
曹操たちがなぜ、ただの小娘をこうまで気に入るのかわからない。
いずれ自分も彼女に構ってしまう日が来るのだろうか。
いいや、そうはいくものか。
他の誰もが彼女を可愛がろうと、ひとりくらい厳しくする者がいなければなるまい。
李典は典韋の大きすぎる背に隠れまったく見えない新たな仲間に、静かなる対抗心を燃やした。
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