染み抜き洗剤と漂白剤、準備は万端だ。
は鞄にスーツの染み落としセットを突っ込むと、先日通った道と逆の順路を辿っていた。
いきなりぶつかった挙句トマトをぶちまけ、超高級品の真っ白なブランドスーツにトマトの赤い染みをこれでもかというほどにつけてしまった男をは捜していた。
ごめんなさいを言う前に不動に連れ去られ、ゴタゴタと揉めどさくさ紛れに迷惑人間扱いされたことに憤慨して、結局その日は詫びることができなかった。
迷惑と言われるほど悪いことではないが、きちんと謝らず逃げ出す行為は開き直りのしようがない悪行だ。
悪いことやったらちゃんと謝りなさいと全うな教育を受けてきたから、母の教えを忠実に実行したい。
まぁママの場合は悪いことぜーんぶ舎弟に押しつけてたけどと付け加えられてもいたが、生憎とこちらには親友はいても舎弟はいないので、やはり自分で片をつけるしかなかった。
舎弟とは、募集したら寄ってくるものなのだろうか。





「あ、あれ?」





 とぼとぼと歩いていると、一台の車がの視界に飛び込んできた。
やたらと胴が長いリムジンに乗り込む金髪サングラスの長身の男は、先日粗相をした男と同じ姿だ。
間違いない、あの人がごめんなさい対象者だ。
呼び止めるべく慌てて駆け出すが、車も男もこちらに気付くことなく走り出す。
陸上部どころか体育会系でもなんでもないただの帰宅部のか弱い乙女に、車を追いかける脚力などあるはずがない。
しかし、せっかく見つけたのだから諦めたくはない。
それに、不動は彼のおかげで鬼道たちから不信感を抱かれている。
確かに不動は昔は、突然駆け落ちを持ちかけてくるような不審者だった。
金属バッドをお見舞いしたこともある。
それでも不動は優しいのだ。
優しくて不器用で、不器用ながらも優しくしようと心がけて気遣ってくれる優しい不審者なのだ。
だから濡れ衣を着せられていても何も反論せずに、すぐに挑発してしまう。
信頼を寄せてくれているのなら、もっと頼ってくれていいのだ。
人に頼れと言う前に、まずは我が身を顧みてほしい。
1人で抱え込まずにもっと俺らを頼れよと叫んでいたあの日の半田の言葉を、は忘れていなかった。





「あのおじさん捕まえて、あっきーの無実を証明させなきゃ」





 車の後ろを走っていたタクシーに飛び乗り、ドラマの張り込み調査のようにリムジンのストーキングを始める。
ストーカー被害には過去何度も遭ってきたし今も冬花に付きまとわれているが、こちらがストーカーになるのは初めてだ。
なるほど、これは目が離せなくてドキドキする。
イタリアエリアに入って思ったよりも長旅になったが、嵩張るタクシー代は監督につけておけばいいだろう。
あの監督は、ちょっと道也さんと言うだけですぐに財布に穴を開けてくれるちょろい親父だ。
ラーメン一杯も驕ってくれないどこぞの雷雷軒店主よりも美的センスに優れている。
はイタリア代表宿舎前で停車したリムジンから少し離れた所でタクシーから降りると、ひっそりこそこそ尾行し始めた。
ストーキングされていると知られたら更に非礼を重ねてしまうので、見つからないようにゆっくりと移動する。
イタリア宿舎の入り口に近付いたところで、突如飛び込んできた少年たちの驚きの声には思わずひゃあと小さく叫んだ。






「えっ、なになに今の声フィーくん?」
「・・・・・・出ていけ」
「・・・ですか!」
「えっ、わっ、なんか黒いのぞろぞろ出た!」





 入り口の門に張り付いて男とフィディオたちのやり取りに耳を澄ませていると、いつの間にやら到着していたロケバスからぞろぞろと黒マント集団が現れる。
ちょっとした好奇心と出来心で1人のマントの裾を踏みつけてみる。
ずれたマントから覗き見えた姿に、は固まった。
意味がわからない。
朝から悩み、豪炎寺から悩むなとアドバイスされ一時的に引っ込んでいたもやもやが再び顔を出す。
マントinマント、ゴーグルonフェイス。
イナズマジャパンが世界に誇る天才ゲームメーカーの個性をそっくりそのままコピーしたような少年がいる。
いつの間に鬼道の格好は世界のトレンドにのし上がったのだろうか。
先日話していた雑誌の取材がもう来ていて、そして早速巻頭カラーで紹介でもされたのだろうか。
そうとは考えられないし、考えたくもない。
もし、もしもだ。
憧れからの真似ではなく、他の何かの意図があってマントとゴーグルを装着しているとしたら。
ますます意味がわからない、このマント集団は何なのだ。
なぜ鬼道が2人いるのか、50文字以内で簡潔に説明してほしい。
ありとあらゆることがわからなくなり、地面にしゃがみ込み頭を抱える。
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいで、今にも溢れ出そうだ。
まさか、ちょっとトマトの非礼を詫びに行くつもりがこんなことになるとは思わなかった。
誰なのだ、あの男は。
うーあーと唸っていると、ちょいちょいと肩をつつかれはまたもや悲鳴を上げた。
ちゃんと慌てた声で名を呼ばれ、声音に安らぎを感じ顔を上げる。
フィディオが苦笑いを浮かべこちらを見下ろしており、はのろのろと立ち上がった。





「えっと、あ、その・・・」
「こんにちはちゃん、また会ったね」
「こんにちはフィーくん。あああの、別に偵察とかそんなんじゃなくてちょっととあるおじさんのストーキングを!」
「落ち着いてちゃん。・・・俺たちちょっと取り込んでるんだ、別の場所で話さない?」






 フィディオや彼のチームメイトに連れられイタリア宿舎を後にする。
当てもなく歩く選手たちの表情は皆冴えておらず、鬱々とした空気が周囲を取り巻いている。
やはり、あの男との間で何かあったのだ。
新しい練習場所とやらを探すため散り散りになったイタリア代表を見送ると、はフィディオにどうしたのと尋ねてみた。
なにやらとてつもなく厄介なことが起こっているようだが、フィディオは大丈夫なのだろうか。
落ち込んでいるチームメイトを励まし明るく振る舞っていたが、彼も心中穏やかではないはずだ。
に見つめられたフィディオは、照れ臭そうに頬を掻くとぽつぽつと話し始めた。





「さっき、白スーツの男がいたことは知ってる? 彼・・・ミスターKって言うんだけど、俺たちの新しい監督になったんだ」
「なんで監督がフィーくんたち代表をグラウンドから追い出すわけ」
「ミスターKは、新しいイタリア代表選手を連れて来たんだ。だからあのグラウンドが彼らのものなんだよ」
「新しい代表って黒マント集団のこと?」
「そう。よく見てたんだね」
「まあ、こっちもちょっと気になることあったから。フィーくんたち代表クビになっちゃったの?」
「まさか。あんな通達受け入れられるはずがない。明日、イタリア代表決定戦をやるんだ。だから今はそれに向けて練習場所探しさ」
「なるほど」





 地図を片手に空き地を探し回り、ようやく見つかった場所に安堵して待ちかねている仲間たちの元へ戻る。
落ち込んだままではいられないとわかっているのか、選手たちも動き出す。
君がちゃんなの、うん私がちゃんだよ、違うよこの人は違うちゃんなんだ。
東洋人のミステリアスな可愛さに興味津々のイタリア少年たちに尋ねられるがままにざっくばらんに自己紹介をしていると、頭上でみしりと何かが折れる音が聞こえてきた。
何の音だろうと空を見上げたは、目の前を歩いていたGKめがけて倒れてきた巨木に声を失った。
なんというぴったりなタイミングで倒れてきたのだ。
いいやそれよりもGKだ、彼は生き埋めに遭っていないのか。
巨木の向こう側に座り込むGKを見てほっと胸を撫で下ろすが、痛々しく腕を押さえる姿に眉を潜める。
嫌な予感がする。
以前も似たような出来事を目の当たりにした気がする。
あれは痛ましい事故だった。
事故だと思っていたら仕組まれた陰謀で、事件だった。
病院へ搬送され、搬送先で次々と別行動を取っていた選手たちの怪我も判明しますます不安になる。
本当の本当に、乙女の勘ががんがんと警鐘を鳴らしている。
正副GKを含む8名もの選手が試合出場できなくなり、さすがの空元気も底を尽いたのかしょんぼりと歩くフィディオの背中をは見つめた。
フィディオは、見ず知らずの赤の他人にもとことんまで尽くしてくれた正真正銘のいい男だ。
物事を前向きに考えて思慮深く、なによりも責任感が強い。
落ち込みすぎ歩く気力も失せた仲間たちが立ち止まっていることにも気付かず、路地を歩くフィディオのユニフォームの裾をはつかんだ。
首を傾げこちらを顧みるフィディオの顔が寂しそうで、こちらも寂しい気分になってきた。






「フィーくん」
「なに、ちゃん」
「フィーくん、なんだかすっごく嫌な予感するの。練習も大事だろうけど、今日はばたばた動かないでどっかに固まってた方がいいよ」
「今の俺たちには固まる場所もないんだ。ありがとうちゃん、ちゃんは優しいんだね・・・」
「フィーく・・・・・・!?」






 突然上空が暗くなり、足元に不規則な影ができる。
この影は以前にも見たことがある。
ガラガラと何かが崩れ、降ってくる音が聞こえる。
異変に気付いたフィディオがの体を引き寄せ、咄嗟に降ってくる木材から回避する。
フィディオの息を呑む声が聞こえたかと思うと、抱き寄せられていた手に力が入る。
腕の間から見上げた空には木材が舞っていて、こちらへ向かって真っ直ぐ降ってくる。
守らなくちゃ。今度こそ守って、サッカーやめるとか言わせないようにしなくちゃ。
は渾身の力を込めフィディオを押し倒した。
代表をやめてほしくない。
練習で披露した華麗なプレイを試合でも見せてほしい。
見たいのだ、世界に知られるストライカーのプレイを。






ちゃん、どいて!」
「だーめ」
ちゃん!」
「言ったじゃん、嫌な予感するって」





 女の子の言うことはちゃんと聞かなきゃ駄目だよと笑ってみせると、フィディオの顔がくしゃりと歪む。
本当は怖い、とても怖い。
だが、今日は鉄骨ではないから死にはしないはずだ。
腕の下で身じろぎするフィディオの首から、きらりと光るネックレスが零れ出る。
あれ、このペンダントトップとっても見覚えあるけどもしかして?
新たに浮かんだ疑問の真意を確かめるべく口を開こうとしたの声は、地に落ちた木材の音でかき消された。






「はなればなれになってもぼく、このキーホルダーもってるちゃんをずっとさがすよ」「2人だけの、ひみつのあいかぎだね!」






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