10.矢印の作り方










 は鏡の前で百面相していた。
柔らかな笑みと共にごめんなさい。悲しげに目を伏せてごめんなさい。
いっそ土下座をするレベルかもしれない。
いや、間違いなく土下座してごめんなさいだ。
一度ならず2度、いや、3度までも間違った名字で呼んでしまうなんて酷いにも程がある。
しかも相手は春奈の実の兄ときた。春奈にもごめんなさいと謝らなければならない。
鬼道財閥なら耳にしたことがある。
あるが、鬼道と書いてキドウと読むとは思わなかった。
そういえばあそこのホテルもキドウグループとか言っていた。
まずい、慎ましくも幸せな我が家の土地が鬼道財閥に買い上げられてしまうかもしれない。
パパママごめんなさい。、とんでもない人を怒らせちゃったかもしれない。
うわあどうしようどうしよう。
わたわたとしていると、オーブンが軽快な音を立てた。




「あ、できた」




 綺麗に膨らんだスポンジ台に生クリームを塗りたくる。
季節の都合上、高くて手が出せなかった苺の代わりに作ったイナズマの形をしたチョコを突き立てる。
2ホール作ったが足りるだろうか。
1ホールを8等分すればギリギリで足りると見込んだが、体育会系男子中学生の胃袋を甘く見てはいけない。
それに、甘いものが嫌いな連中だっているはずだ。
は染岡がケーキを食べる姿を想像することができなかった。
できなかったから、代わりに雷雷軒になさそうな料理も作ってみた。
我ながら完璧な差し入れだと思う。
ここまでするファンなど世界中探してもそうはいまい。
はケーキその他を大きな紙袋に詰めると、鏡の前で身だしなみの最終チェックをして外を出た。
雷雷軒までそう遠くはなくすぐに着く。
本日貸切と書かれている張り紙を見なかったことにして戸を開ける。




「すみませんねぇ、今日は貸切なもんで・・・・・・。あぁ、君か」
「お、! なら大歓迎だよな、みんな!」
「いらっしゃいちゃん、ここどうぞ」
「今日は地区大会優勝した皆さんに差し入れでーす。ケーキとか作ってきたから良かったら食べてね」




 カウンターの中にいる円堂にケーキを渡す。
それほど物珍しいのか、がやがやとケーキを取り囲んだ円堂たちの間から歓声と拍手が上がる。
すっげー稲妻の形してるチョコだぜなどとかしゃいでいるのを見ると、作った身としては嬉しくなる。
今までは作っても仏頂面で不味くはないとしか言わない男を相手に作っていたので、喜びいっぱいの円堂たちを見守る表情も自然と柔かくなる。




「うっめー! これほんとにが作ったのか!? すげぇよ!」
「いやー、こんなに豪快に食べてくれるとバレンタインも奮発しちゃうよね」
「・・・俺、ちょっとを見直したかもしれない」
「はは、半田早速バレンタインの予約してるのか? ちょっとまだ早いぞ」
「そうそう。1月くらいになって言ってもらわないと半田の分だけ故意に忘れちゃうぞー」
、ほんとに俺には容赦ないよな!」




 ものすごい勢いでなくなっていく差し入れを確認すると、はよいしょと言って立ち上がった。
湿布は貼っているがまだ少し痛む。
一瞬眉をしかめると、はすぐに笑顔に戻って店の戸に手をかけた。
これから鬼道の家へ行くつもりだった。
ありがとうとごめんなさいをしなければならなかった。




「もう帰っちゃうんですか?」
「これから行くとこあるの。ここにいてずっと現実逃避してたいんだけど、こうしてる間にも・・・」
「そっか・・・」
「ごめんね、じゃ!」




 何か言いたげにしている豪炎寺の目を避けるように急いで外に飛び出す。
早歩きができないのが辛いところだが、生きていただけでも良しとするべきなのだろう。
この痣がなければ今頃は死んでいたのだ。
痛いなどとは言っていられない。
電車に乗り、以前歩いて帰った道を思い出しひたすら歩く。
言って本人がいなかったらどうすればいいのだろう。
本人が留守である時ほど気まずいものはない。
みすぼらしい少女がいきなりお宅の息子さんいますかと尋ねても、不審者扱いされるだけかもしれない。



「・・・インターホンってこんなに押しにくいボタンだったっけ・・・・・・」



 でんと構えた門を前に足が止まる。
以前もそうだった。
帝国学園の警備員にすげなく追い返され途方に暮れていたところで、鬼道邸を見つけた。
学生証に書かれている名字と同じ表札を見つけて喜んだがインターホンを押す気にはなれず、ぼうっと突っ立っていた。
あの時はたまたま運良く鬼道が現れたが、幸運は何度も続くまい。
どうしよう、やっぱり出直そうか。
いやしかし、出直した日も同じことを思ってしまいそうだ。
うわあああと門の前でしゃがみ込むと、しゃがみ方が悪くて脇腹に激痛が走る。




「あいたたたたた・・・」
「大丈夫か!?」
「ぅおうオニミチ・・・じゃない、鬼道くん!」



 助かった、本人が来てくれた。
今日も散歩をしていたのか、私服姿の鬼道にへにゃりと笑いかける。
笑い返そうとした鬼道の顔がすぐさま曇り、顔を逸らされる。
まずい、何かまた彼の気に障るようなことをやってしまったのだろうか。
今度は名前は間違えなかったはずだが、笑いかけたのがいけなかったのか。
日の光に晒されたアスファルトは熱そうだが仕方ない、今こそ土下座ごめんなさいだ。




「あの、あのね鬼道くん」
「立てるか? ・・・俺に用があったんだろう?」
「うん、あ、ありがと・・・」




 すっと伸ばされた手に自分の手を重ねる。
転んだ女の子に手を差し伸べるシーンなどアニメか漫画の世界だけのものだと思っていたが、どうやら現実にも存在するものだったらしい。
これで試合の時のようにマントを羽織っていれば、どこからどう見ても王子様か騎士だ。
やはり鬼道は優しい。
決して誰か、例えばどこぞの幼なじみと比べているわけではないが、持って生まれた優しさのキャパからして違う。
立ち上がってじっと鬼道を見つめていると、何だと尋ねられた。




「初めて会った時から思ってたけど、鬼道くんってほんと優しくて紳士的だよね・・・」
「・・・中で話さないか?」



 案内された部屋は応接間ではなく、鬼道個人の部屋だった。
彼個人の部屋といっても自宅のリビング以上の広さはある気がする。
あの絨毯の上で土下座していいだろうか。
それともフローリングの上ですべきだろうか。
どちらにしてもアスファルトよりはましだ、誠心誠意謝って、できることならば許してもらおう。
自宅を買い上げると言われてしまった時は、彼の気が済むまで鬼道邸で下働きとして働いて許してもらおう。
用事を済ませたらしい鬼道が、待たせたなと言って部屋へ入ってきた。







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