商人の町　　　　６





　ベッドに横たわるリグを見た直後、フィルの脳内にあらゆる映像が飛び込んできた。
フィルと名を呼び、拒絶にもめげずに抱き寄せたリグ。
普段あまり愛情を体現してくれない彼が見せた行動に、眩暈がするほど嬉しく思った。
やっとリグが現れてくれた。これで悩みも解決に向かうはず。
やはり窮地には必ず助けに来てくれるリグは、正真正銘の勇者だ。
こんなに優しく、そして頼もしい人が恋人で良かった。
リグに抱き締められたその時だけ、フィルはすべての苦しみから解き放たれた気がした。
本当に、それは一瞬の錯覚だったのだが。
あの不気味な男と会ってからずっと抱えていた恐怖は、まさにこの瞬間のために存在していた。
意思とは無関係に動く己の手。
愛しているがゆえに背に回した手が凶器を握りリグの体にそれを宛がった時、フィルは己が行為に戦慄した。


体が言うことを利いてくれない。
私にはどうすることもできない。
お願いリグ、あなたを害しようとしている私の愚挙に早く気付いて。
願いが届くことはなかった。
リグはあくまでも、愛しい存在としてのフィルを腕の中に閉じ込めたままだった。
だから彼は倒れてしまったのだ。
私が、一番愛してやまないリグを傷つけてしまったんだ―――――。
フィルの目の前が真っ暗になった。
リグが死んでしまったらどうしよう。このまま目を開けてくれなかったらどうしよう。
私は、これからどうすれないいのだろう。
様々な不安がフィルに襲いかかった。
謝っても謝りきれないことをしてしまった。許してもらえないことをしてしまった。
世界中の期待を背負っている青年を傷つけてしまった。
この過ちは、どうやったら償えるというのだろう。


















「私・・・、ほんとにリグを・・・・・・。私、私・・・・・・っ！」


「落ち着いてフィル！　フィルは、誰かに操られてただけ。フィルは悪くないよ！？」


「でも、リグを傷つけたのは私だよ！？　私がこの手でリグを刺したの・・・・・・！」

「フィル！！」





　エルファが悲痛な叫びを上げた。
エルファが言うとおり、誰かに操られての行為だったのだろう。
しかしリグを傷つけたことに変わりはないのだ。
リグを苦しめた自分が嫌になる。
いっそのこと自分に何かで刺してみようかとも思った。





「フィル、リグの具合は大丈夫だよ。すぐに目を覚ますから・・・」

「でも、リグの顔色悪いじゃない・・・」

「大丈夫だよ！　だからお願いフィル、フィルも少し休んで・・・・・・。フィルだって怪我してるんだよ？」

「私、どこも痛くなんてない！　痛い思いしてるのはリグだよ！？」



「・・・痛くないなんて嘘つくなよ、馬鹿・・・」






　布団の中からくぐもった声が聞こえ、エルファとフィルははっとしてベッドの方を顧みた。
眠っていたはずのリグがむくりと起き上がろうとしている。
エルファはリグの体を支えクッションをベッドとの間に挟むと、大丈夫なのとそっと声をかけた。





「まだ休んでた方がいいんじゃ・・・」


「寝てたしもう平気。それより、ちょっと２人にしてくれるかな」


「・・・うん」






　リグはエルファが部屋から出たことを確認すると、フィルと名を呼んだ。
呼んだ途端にびくりと肩を震わせ、泣きそうな顔で見つめてくる。
リグはもう一度、今度は手招きも交えてフィルと呼んだ。
躊躇いがちに近づいてベッドの隅に腰掛けるフィルの顔を見て、できるだけ柔かく笑いかける。





「フィル、あの「ごめんなさい・・・・・・っ！　私・・・っ、リグを傷つけて・・・・・・！！」




　堰を切ったように泣きだしたフィルを前にリグは困惑した。
女の子に泣かれた経験なんてないし、ましてや泣き止ませる方法など知るはずもない。
この場合、慰めるといっても無理がある。
真正面から向き合って話し合わなければ、どうにもならないのだ。





「フィル、いいから俺の話聞けって」

「私、リグのこと大切に思ってるのに、いくら操られてたからって許されないことを・・・・・・！」

「フィル」

「もう、こんなことした自分が大嫌い。もう、リグの傍になんていられない・・・！」

「フィル！！」





　話を聞こうともせず悲観的な発言を繰り返してばかりのフィルの腕を、リグは強引に掴み引き寄せた。
ぴりりと脇腹に痛みが走るが気にしない。
変な趣味はないが、この傷もフィルがつけたと思えば愛着が湧くというものだ。
それに、肉体的な痛みなんてこの際どうだっていい。
ちょっとかすり傷を負ったくらいの自分の容態よりも、精神的に多大なショックを受けているフィルの状態の方が心配だった。
腕の中で涙を流しているフィルの背を、リグはひたすら優しく撫で続けた。
物心ついた時からずっと一緒にいた彼女だったが、リグは今日ほど悲嘆に暮れているフィルを見たことはなかった。
彼女をこんなに辛い目に遭わせた奴が憎くてたまらない。






「フィル・・・、俺の具合は平気なんだよ。そんなに傷も深くなかったみたいだし、操られててもフィルはギリギリのとこで踏み止まってくれてたんだよ」

「でも・・・っ」

「でももだってもないって。本当に俺は怒ってないから。むしろ、お前を操ってた奴を殺したくてたまらないくらいだよ」


「え・・・？」


「・・・俺に用があるんなら直接俺の邪魔しに来ればいいのに、人の弱いとこ狙ってくるなんざいけ好かない」






　リグはフィルの体を離すと、そっと彼女の頬に触れた。
今は牢と違って明るいからきちんとわかる。
フィルの頬には、何かで切られたらしい傷跡がうっすらと残っていた。
エルファが治療してくれたのだろうが、完全に傷跡を消すことはできなかったに違いない。
操っていた奴とは別の、フィルを誘拐しようとしていた連中がやったのだろう。
何にせよ、許しがたい行為だった。





「フィル、お前は痛くないのか？　そんなわけないよな・・・、血出てたんだし」


「私、どこも怪我なんてしてないと思うけど・・・」


「・・・気付いてないのか？」





　訝しげな表情を浮かべているフィルを見つめ、リグは眉を潜めた。
エルファも、誰もフィルが顔に傷を負ったことを教えていないのか。
部屋を見渡せば鏡の類もないし、フィルが確認する術はなかった。





「ねぇリグ・・・、どうしてさっきからずっと私の頬っぺた触ってるの・・・？　くすぐったいよ」


「・・・・・・フィル、悪いけど俺の荷物取ってくれる？」


「うん？」





　フィルはベッドの下に置かれているリグの荷物袋を手に取った。
何やらごちゃごちゃと無造作に突っ込んであるが、どれも大切なものなのだろう。
袋を手渡すと、リグはその中からやたらと綺麗な鏡を取り出した。
いつだって曇りなき光を湛えているラーの鏡なら、フィルの顔もありのままに映し出してくれるだろう。
リグが手にした鏡をフィルはちらりと見つめた。
鏡の中の真実にようやく気付いたのか、フィルの指が傷痕に伸びた。






「フィル・・・、その傷はあの町の連中につけられたのか？」


「・・・彼らを責めないで・・・。私がいけないの、私が無茶苦茶なことしたのがいけなかったの。
　あの人たちが怒るのも当たり前。当然の報いなんだよ、これは」


「怒るにしても、ろくに抵抗できないか弱い女の子１人に大の男３人が襲いかかったんだぞ。あいつら、お前をどっかに売り飛ばそうとか言ってたんだぞ・・・！？」


「ふふ・・・、私なんて売り飛ばしても大したお金にならないのにね。それに商売道具を傷つけちゃうなんて笑っちゃう」





　フィルは鏡をリグに押しつけると寂しげに微笑んだ。
顔の傷なんてどうでも良かった。
リグが無事でさえいれば、それで満足だった。
これ以上何を望むというのか。





「ごめんねリグ・・・・・・。私、やっぱりもうリグの傍にはいられないや」


「何言ってんだよ・・・。俺は全然気にしてないって言ったろ？　それにお前の傷だって・・・」


「リグ、ほんとに昔とは比べ物にならないくらいに逞しくなった・・・。世界を救う勇者様が、こーんないわくありげな傷こさえてる子に傾倒することないよ」






　フィルの存外すっきりとした口調に、リグは凍りついた。





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