私たちが地球を割るまで
とても良さそうなホテルを見つけた。
4年に一度のサッカーの祭典だから、少し、いや、かなり羽目を外しても神様も見逃してくれるはずだ。
むしろ我こそが自称他称フィールドの女神なのだから、女神がいいと言えば何だって許されるのだ。
はタブレット上に映し出されたリゾートホテルをもう一度確認し、よしと気合を入れソファから立ち上がった。
この時点でなぜ隣に座っていてくれないのか、サッカーボールを操っていない時のゲームメーカーの心の裡は非常に読みづらい。
久々にひとつ屋根の下にいる嫁を可愛がりたくはないのだろうか。
はダイニングテーブルでパソコンとにらめっこしていた鬼道の向かいに座ると、努めて明るく声をかけた。
作戦は既に始まっている。
「ねえねえ有人さん!」
「どうした? 難しい顔をしていたが、仕事は終わったのか?」
「は? いや仕事はテイクアウトしてないけど、私そんなに怖い顔してた?」
「ああ、心配になるほど集中していた。だが今はご機嫌だな、良いことがあったのか?」
「まぁね! それでね有人さん、お休みなんだけど」
「ふっ、さすがだ。そう言われるだろうと思って解説の仕事は不動に譲ってきた。悔しいがあいつなら俺も安心ができる」
「そうなんだー。あっきー経費で現地に行けるってノリノリだったし、いい事したね」
さすがは鬼道だ。
奥手でストイックなように見えて、きちんと休みに向けての手は打っていた。
夫の代わりに働いてくれる何も知らない不動には、現地で会った時にそれとなく労をねぎらっておこう。
彼が宿泊するホテルに高級ワインの一本でも差し入れしてやるのもいいかもしれない。
いやでもそうしたら不動のことだ、こちらの宿泊場所を調べ上げて夫婦水入らずの現場に乗り込んでくる可能性がある。
とりあえず不動の対処は鬼道に任せるとして、今はこちらの休暇の過ごし方だ。
は入念なリサーチの成果をテーブルに置くと、あのうと鬼道の手に自身の手を重ねた。
おねだりの合図を見逃す夫ではない。
彼は今も昔もこちらの一挙一動を観察し続けている。
鬼道がこちらを見つめる表情がより一層甘やかなものになり、は、作戦の成功を確信した。
「どうした? どうしてほしい?」
「行きたいところがあるんだけど・・・。ここ、すごーく景色も雰囲気も良くてアクセスも良くて、どう?」
「どれどれ・・・?」
タブレットに目を落としかけた鬼道のスマートフォンが、ピピピピと軽やかなメロディーを刻む。
この立ち上がリーヨは円堂からだ。
初めの頃は現地時間真夜中に着信音を轟かせていた円堂も、ようやく時差の計算ができるようになったらしい。
は鬼道が申し訳なさそうに席を立ったのを笑顔で見届けると、再びタブレットを手に取った。
今までおねだりが通用しなかったことは一度もない。
世界各地へ飛び回る生活を続ける自身とサッカー選手の鬼道とは、一緒にいられる時間があまり多くはない。
だから祭典の期間は最高だ。
出場する選手以外は試合もないので、ほとんどがまとまった休みを取ることができる。
つまりだ。
ようやく、本当にようやく夫とゆっくりのんびりいちゃいちゃできるのだ!
これを逃せば次はいつ遊べるかわからない。
鬼道もそれはよくわかっているはずだ。
夫は今も昔も様一筋の一途な男だ。
目に入れても痛くない世界で一番可愛い愛妻とのひとときを夢見ないはずがない。
は別室の夫の様子を伺うべく、そろりと扉に耳を当てた。
随分な長電話だが、何か事件でもあったのだろうか。
「また新しいテレビ買ったのか・・・。4年毎に新調してないか?」
「わかった、行く」
「行く!?」
このタイミングで即答される「行く」とは何だろう。
彼はどこへ行くのだろう。
思いもよらぬ淀みのない夫の即答に動転したが、素っ頓狂な声を上げる。
鬼道が驚いた顔でこちらを顧みて、また申し訳なさそうな顔をする。
なぜ今、顔で謝った?
リビングに戻った鬼道が、嬉しそうに円堂がと話を切り出す。
もう嫌な予感しかしない。
これはゲームメーカーの予感ではなく女の勘、妻の冴えだ。
「円堂とワールドカップ観ることになった」
「円堂くんって現地組だっけ?」
「いや、日本に行く。豪炎寺も来るらしい」
「修也も」
「ああ。他の奴らは日程や場所が合わなくて無理だったが、3人で集まるのは久し振りだ。楽しみだ!」
「よ、良かったじゃん!」
「ああ! 円堂なんて大会に合わせてテレビまで買い替えたそうだ。まったく、相変わらずのサッカー愛だな」
「・・・私だって買い替えるのに」
「何をだ? ああ、さっき言っていた行きたい所とはひょっとして新居だろうか。確かにここも手狭になったし、もう少し互いの職場に近い方がいい。さすがはだ、そういうことは休みの時しか内見に行けないからな」
「・・・」
このタイミングで新居の話をする愛妻がどこにいる。
そんなものはいつでもできる。
2人で現地に行くならリゾートバカンス気分で夫好みの勝負下着もいくらだって新調するのに、何がテレビだ。
円堂たちの絆の強さを知っているから、行かないでと泣きつくことができない。
良かったねと一緒に喜んであげた時の笑顔は引き攣っていなかっただろうか。
親友との再会に心躍らせている夫の笑顔を曇らせたくはない。
というか、急にフリーになってしまったこちらの大型連休はどう過ごせばいいのだ。
こちらの新調分、週末には届くのにいつ使えばいいのだ。さすがに他の人を相手には使えない。
「は休みはどうするんだ? 一緒に来るか? 2人で飛行機に乗るのも久し振りだな」
「あー、えっと・・・」
なんとなく、男たちの折角の会合に水を差したくない。
妻同伴でデレデレしている夫を痛烈に批判する幼なじみと喧嘩するのも面倒だ。
そもそも、豪炎寺とは別の機会に会う約束があるので何度も顔を合わせる必要はない。
どうする、どうしよう。
助けて誰か、夫以外の王子様。
の願いが天に届いたのか、流れ星がスマートフォンに着弾する。
初代王子様、いた。
夫の天敵から連絡がきた。
はフィディオと表示されている着信元が見えないようスマートフォンを手に取ると、もしもしと弾んだ声を上げた。
『あ、ちゃん? 遅くにごめんね、今大丈夫だった?』
「うん、全然平気! しばらくずっと暇だからずっと平気!」
『そうなんだ? でもそれなら俺は助かるかも! ちゃん、もし良かったら俺と一緒に現地で仕事しない? オーナーが原石を探してほしいってチケットくれたんだけど、ちゃんの見立ても欲しくて。まあ仕事っていってもバカンスみたいなものだから、あんまり気負わずオレとデートする気分でどう?』
「わかった、行く!」
『ありがとう! じゃあ詳しい話は今度うちに遊びに来てくれた時に話すね』
通話が切れたことを見届け、スマートフォンを高らかに天に掲げる。
楽しそうだなと鬼道から声をかけられ、慌ててそんなことないよと答える。
「それで日本に戻る日だが・・・」
「ごめん、私、仕事入った」
「は? いや、だがさっきはあんなに楽しそうに休みの話をしてたじゃないか」
「そうだったんだけど、今の電話、仕事の話で」
「仕事の連絡はそっちの電話には来ないはずだが。まさかフ」
「あっきーは解説でしょ。やだぁ有人さん忘れちゃったの?」
「いや、フィ」
「私、現地で観るけど有人さんほんとに来ない?」
最後のおねだりだ。
腕を絡ませ、体を寄せて必殺の上目遣い。
ここまでやって円堂と豪炎寺に負けるなら、もう何をやっても無駄だ。
鬼道がじいとこちらを見下ろす。
来るか、来るだろう、来るに決まっている。
頬に手を添えた鬼道がちゅ、と額に口づけを落とす。
「仕事なら仕方がないな・・・。俺はサッカーを観ている時のも好きなんだ。今回はサッカーに譲るよ」
「・・・そっかあ~」
譲るなよ。
もっとサッカーと競ってよとごねる元気も奪われた。
は嬉々として日本行きの飛行機のチケットを予約し始めた鬼道の背中を恨めしげに見つめた。
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