公主様の帰還     終







 見覚えのある女人が弔問に訪れている。
それなりに安否を案じていたが、無事だったようだ。
満寵は合肥新城建造の指示を一時休止すると、数人の男に囲まれ物珍しそうに城壁を見回している女性へと歩み寄った。



「やあ、息災なようで何より」
「満寵殿。その節は大変お世話になりました」
「ははっ、それはお互い様さ。今日はいったいどのようなご用件でこちらまで?」
「亡き先帝のお悔やみがこちらでもなされていると伺いました。命を助けていただいた方の主君となれば、礼は尽くしたく存じます」
「それはご丁寧に。こちらへどうぞ。ああ、子分の方たちはどうします? 一応ここは魏軍の最重要拠点でね、あまり見られてほしくない」



 離れろと言って素直に聞く下僕たちではないことは、彼らとも付き合った経験があるからわかる。
惚れ惚れするほどに主に忠実で、かつて曹操に命を懸けて仕えていた典韋や許チョを思い出す。
案の定色めき立った男たちを窘め始めたに向かって、満寵はぱちんと指を鳴らした。



「今、ちょうど試作中の兵器があるんです。良ければ試してみませんか?」
「試作の兵器・・・」
「あっ姐御! 俺ら姐御のためなら命懸けられますぜ!」
「心外だなあ、ちょっとした回廊ですよ。道中いくつか罠は仕掛けたけど、そこにいる女の子だって抜け出せるくらい簡単なものさ」



 満寵が顎でしゃくった先に、女の子と呼ぶにはかなり無理のある年齢の女性が突っ立っている。
小柄だが動きは身軽そうで、こちらを見ている目にも警戒の色がある。
あれはどこかで見たことがある気がするがはて、どこだったろうか。
視線に気付いたらしい女性が、驚いた表情を浮かべる。
ひょっとしてこちらの素性を知っているのだろうか。
は女の子呼びされた女性について、やんわりと満寵に尋ねた。



「満寵殿の奥方・・・ご息女でございますか?」
「とんでもない! あの子は同僚だった人の妻で、その人も亡くなってしまったからこっちに引っ越してきてるんですよ。そうそう、曹丕殿・・・先の陛下ともご縁があったりして、良かったら話し相手にでも」
「満寵様!」
「おっと、これは失言だったようだ。私はどうも言って良いことと悪いことの判別が苦手なようで」
「・・・ああ、あなたが」



 遠い薄れゆく記憶の片隅に、父や夏侯惇たち股肱の将たちに大層可愛がられていた娘がいたことを思い出す。
父の最初の護衛、典韋を特に敬愛していたと聞いている。
国に長く尽くし、今もこうして働いてくれている。
満寵の元に身を寄せているというだけで、それは他の何よりも確かな信頼の証になる。
は首を横に振ると、胡分たちを顧みた。
手伝って差し上げなさいと伝えると、二つ返事で回廊とやらへ駆け出していく。
ぎゃああと尋常でない悲鳴が聞こえてきた気もするが、これも鍛錬だ。
は満寵に連れられた先の部屋へ向かった。
既に先客がおり、室内は嘆き悲しむ人々で溢れ返っている。
ほっとした。ここでは仮面を剥いでも良い気がする。
は小さく息を吐くと、神妙な面持ちのまま語り始めた満寵の言葉に耳を傾けた。



「陛下はお若すぎた。次の曹叡殿も聡明な方だと伺っているけれど、魏はまた変わっていくのだろうな」
「陛下をお側でお支えするのはどなたでしょう」
「司馬懿殿でしょう。曹休殿は今回の敗戦の責を強く感じてしまい、今は臥せっていると聞きます」
「文烈殿を詰るような陛下ではありますまい。あの方はお優しすぎるのです」
「残念なことに、あなたのように励ましてくれる方が曹休殿の周りにはもはやいないのですよ。あえて言うなら、曹丕殿がその役を担っていたのかな」
「・・・」
「あなたに言うことでもないと思いますが、ここは安心して下さい。この機に乗じて孫呉に攻め寄せられないようにこうして新しい城を造っています。ははっ、私は本当に何を言っているんだか」



 相手はただの賊徒風情の妻のはずなのに、次から次へと言葉が出てくる。
敵ではないかもしれないが、味方ではない。
ひょっとしたら曹休の知人かもしれないが、石亭で逃げる彼女が叫んだのは孫呉の将の名前だった。
油断してはいけないとは、相手も同じことを思っているはずだ。
だが、彼女は自らの意思で弔問にやって来た。
泣き悲しんでいる姿に偽りはない。
彼女に抗うことを本能が拒絶している。
目の前にいる女性を通して、まるで慌ただしくも懐かしくて楽しかった日々にいた人々を見ているようだ。
本当に彼女はその場にいたのかもしれない。
何も知らないまま、彼女のために働いていたことがあったのかもしれない。
そんな日があったら良かったのに、さぞや楽しかっただろうにと、あるはずのない日々を思い満寵は苦笑を零した。



「・・・殿、満寵殿」
「え? はい、何でしょう。終わったのなら外へ案内しますよ」
「ありがとうございます。満寵殿は、司馬懿殿をどのように思われていますか?」
「語れるほどの面識はないので、今は何も。ただ・・・」
「ただ?」
「賈ク殿が亡くなったにせよ、私よりもずっと永く国に仕えてきたあの子が洛陽の邸を引き払って私の元に転がり込んできたんです。私は彼女の直感を信じています」
「あなたがいて良かった。わたくしは、あの者を信じるあなたを信じています」



 城を出ると、姐御おぉぉと大声を上げて胡分たちが走り寄ってくる。
すごい、すごいっすよあの兵器!
私兵のひとりが顔を真っ赤にして興奮気味に話す。
もう出てきたのかい、早すぎないか?
製作者も驚愕の速さで回廊突破を果たした私兵たちを、は満足に見つめた。
さすがは正規軍の将軍直々に仕官を乞われるだけはある。
怪我もないようで、これ以上ない戦果を挙げている。
私兵はふうと大きく息を吐くと、大仰な身振りで中の説明を始めた。



「壁から急に槍が飛び出してきたんすよ! 殺されるかなと思ったんすけど、よくよく見たら壁の仕掛けの部分だけ全部色が違ったんで全部回避してやりました!」
「へえ、よく見てるんだね」
「あと、転がる岩もしゃがめば逃げられるんでもう一回りくらい大きいの用意した方がいいっすよ」
「ば、馬鹿野郎! そんなことしたら俺らがやられるだけだろうが!」
「あ、そっか!」
「君、見る目があるね。姐御殿のお許し次第だけど家で働かないかい? 給金は倍は出すよ」
「マ・・・マジっすか! あ、いやでも俺は姐御の・・・」



 知られざる特技を見せた私兵が、おずおずとを見つめる。
手先が器用な男だった。
甘寧の子分だった頃から武具の修理や船の補修を一手に引き受けていたらしい。
武芸はあまりと本人も自覚していたように、戦い方は覚束ない。
孫呉でも工兵としての活躍の場があればいいと思っていたが、たとえ兵にならずとも、技術を磨くなら人の往来がより多い魏へ渡った方がきっと道は多方面に拓ける。



「あ、姐御・・・。俺、兵器とか罠とかこんなに楽しいとは知りませんでした。そこの女の子に聞いたんすけど、これは人を殺すためじゃなくて人を寄せつけないためにあるとか。ほんとにそんな兵器ってあるんすかね・・・」
「わたくしがかつて住んでいた都にもそれは大きな投石車がありましたが、城内の民や陛下をお守りするためのものだと聞いたことがございます」
「へえ・・・! もし俺がここに残ったら、姐御はまた今回みたいに呉の連中が無体働いた時ここに逃げてきますか?」
「いいですよ、亡命大歓迎です。そうだ、どうせなら寿春湖畔の邸もつけてあげよう。曹休殿から渡すように言われていたのを忘れていたよ」
「文烈殿が?」
「ええ、彼が。今の曹休殿ができる限りの誠意だそうですよ」
「もらっておきましょう、姐御」
「胡分殿?」
「打てる手はいくつでも、逃げる道は何本あったっていいと思います。これは俺の勘ですけど、姐御、誰かに命狙われてますよね?」



 司馬懿殿じゃないですかと、満寵の背後に控えていた女性がぼそりと呟く。
問いかけに答えるつもりはない。
何らかの反応を見せることで、満寵たちの立場を危うくしてはならない。
は聞こえなかったふりをすると、返答に悩む私兵へと向き直った。



「あなたはどうしたいですか。わたくしは、あなたの選択を尊重します」
「お、俺・・・、ここで姐御のもうひとつの居場所を作りたいです。姐御のお側に胡分たちいるなら、俺は、あの時姐御を助けてくれたこの白い奴を見張りながらやりたいことをやりたいです」
「ははは、随分な言われようだなあ。あなたはそれでいいのかい? 無論私の子飼いとして丁重に扱うと約束する。彼が希望するなら、私の伝手で都の工房を紹介しても構わない」
「彼をよろしくお願いいたします。これはわたくしからの、兄に対する多大なるご厚情の礼です」



 徐盛の配下になってもおそらく、彼は大成できるだろう。
だが、戦いには出てほしくない。
これは主君の独りよがりのわがままだ。
は私兵をひとり残すと、合肥新城を後にした。
ここには二度と来ない方がいい。
寿春の邸に行くのは、孫呉を棄てる時だ。
今までの何もかも、夫すら捨てて逃げる時だ。





「・・・それで、君はあの女人が何者か知ってる? 姐御殿は君のこと知ってたみたいだけど、たぶん随分と昔から。隠すのが巧い人だ」
「姐御は凌統様の奥方ですけど、俺らは他は何も・・・。やんごとない事情があってとしか俺らも聞かされてないっす」
「わざわざ言いたくありません。でも」



 公主がご無事で、曹丕様もきっと安心なされています。
去り行く女人の背中を見送る。
帰還は叶わなかったが、彼女の心はたとえどこにあろうと変わりゆく祖国のものなのだ。
巨大な合肥新城から吹き降ろす風が、一行の背中を押していた。








あとがき
突然新キャラが出てきたり懐かしい人々が出てきたりしましたが、たとえ周囲がどんなに変わろうと、愛されようと、ヒロインはいつまでも曹魏の公主様です。
というのを様々な人が改めて思い知らされた作品になりました。
凌統を相手としたシリーズはこれにて完結となります、最後までお付き合いいただきありがとうございました。



Back

分岐に戻る