公主様の帰還     9







 今回の出征では、石亭の奪取というまずまずの戦果を得ることができた。
戦いが終われば、諸将に対する論功行賞や捕虜とした兵の処遇など、多岐にわたる戦後処理が待っている。
すべてを陸遜たち現場を取り仕切る将に任せるわけにはいかない。
国主として為すべきことはたくさんある。
戦勝を宴を開くのはもう少し先ですね。
差し入れの料理と共に現れた練師に励ますように微笑まれ、孫権はぐうと呻いた。
弱音を吐かせてもらえる隙がない。



「ご歓談中失礼いたします。凌統様の奥方がお見えです」
「ふむ、そうか。すまない練師、少し席を外す」



 前回も同じことを思ったが、曹操の娘は誰にも知られぬ場所に密偵を放っているのだろうか。
逃げたいと思った時を見計らい宮殿を訪れるの間の良さには、少々気味悪くもなる。
もっとも今日はこちらから参内を命じたから、には何の罪も疑念もない。
兄である曹丕が志半ばで亡くなり、心境を知りたかった。
兄弟の縁の儚さにはわかるところもある。
血を分けた兄弟を年若くして亡くすのは、言いようのない空しさが残る。
長く生きればあとどれだけのことができただろうかと、叶うことがなくなった未来を夢見ては寂しくなる。
孫権は練師手作りの肉まんを掴むと、もしゃもしゃと食べながらいつかと同じ四阿へ向かった。
季節が過ぎ、何も浮かんでいない池をぼうと見下ろしているがいる。
明らかに元気がない。
呼びつけた甲斐があった。
孫権は、冴えない表情で拱手したに着席を促した。



「殿下におかれましてはご健勝のこと、何よりでございます」
「私が何を言おうと、あなたの性質は変わらぬのだろうな。曹丕のこと、聞いているな」
「・・・・・・」
「良い。私の兄弟も皆早くに死んだので気持ちはわからないでもない。しかし、凌統の前でもその様子ではいられぬだろう。無理をしているのではないか?」
「侮られたものです・・・。この曹、他者に感情を気取られず過ごす術は身につけております」
「それでは困ると言っている。いつまで凌統の前で強がっている。凌統が不安になるのも道理だ」
「公績殿が?」
「恥を忍んでと、私の元に相談に来た。たとえ敵の君主だろうと、実の兄が死んでも顔色ひとつ変えられない妻が不安だと訴えてきたぞ。頼むから孫呉の大切な将の心を弄ぶような我慢はやめてくれ」



 言われてみれば確かに、建業に戻ってからの凌統は妙に優しかった。
食べたいものはないか、行きたいところはないか、欲しいものはないかと、常にぴたりと張り付いていた。
また余計なことをされないようにと見張っているとばかり思いこちらも気丈に躱していたが、不安感からくるものだとは考えが及ばなかった。
頭や体を動かしている方が気分が紛れるので、私兵たちと船の手入れに勤しんでいたのも良くなかったかもしれない。
やることすべてが凌統の不安を煽っていたことに気付き、は顔を伏せた。
却って気を遣わせてしまっていて、何と言って謝れば良いのかわからない。



「今日はあなたに頼みがある。いや、命令と受け取ってほしい」
「何なりとお命じ下さいませ」
「合肥に曹丕追悼の弔問へ行ってほしい」
「それは・・・」
「曹休は此度の我らの勝利を受け、洛陽へ戻ったと聞く。適当に身分を偽って存分に兄の死を悼んできてほしい」
「よろしいのでございますか?」
「曹丕も死んだ、曹休も不在となればもはやあなたの素性に気付く者もいないと思ったのだが・・・。無論弔問を済ませたら速やかに戻ってくるのだぞ!ここはあなたの帰る地なのだから」



 が孫呉の地をどう思っているのか、孫権にはわからない。
一度ならず二度までも祖国を騙し討ちし、親族を窮地に追い込んだ卑劣な国だと考えていてもおかしくはない。
周魴によって牢に繋がれたともいう。
私ですら牢に入れろと命じたことはないのだがな。
そう苦笑して周魴を窘め、彼女にかけられた嫌疑はそれきりにさせた。
彼はむしろ今、罪状が明らかになっていない段階でのへ対する暴力を訴えられている。
非力なはずの奥方が、果たして周魴子飼いのそれなりに戦歴を積んだ兵を返り討ちにすることができるだろうか。
を非力と称するのはさすがに無理があるのでは。
至極もっともな正論でもって凌統を制してみたが、暴力は良くないと周魴自身も反省しているので、彼の部下への処罰は然るべきところへ預けている。
私刑によって処されるよりは、正当な手続きを経て軽微な罪を得た方が兵にとってもきっと長生きできる。
凌統は、たとえ理由が何であれが傷つくことが許せないのだ。
夷陵でが受けた癒えることのない傷跡は、彼の大らかな部分をほんの少しだけ変えてしまった。
その変質にが気付いていないのは、2人にとっての不幸だと思う。



「ところで、あなたの私兵だが・・・。徐盛が譲り受けたいと進言してきている」
「左様でございますか」
「私としても悪くない話だと思う。徐盛は礼節も弁えていて、筋の通った好漢だ。あなたや私兵らが良ければぜひ前向きに考えてほしい。孫呉には人材が必要なのだ」
「ありがたきお言葉、彼らにも必ずや伝えておきましょう」



 私兵たちの行く末を決めるのは私兵たちだ。
根っからの子分気質で満ち満ちている彼らだから、おそらく徐盛の元へ行っても卒なく兵としての任務を全うしてくれるだろう。
やがて遠出することもままならなくなるであろう自身の傍で遊ばせておくよりも、国にとっては遥かに有用だ。
凌統もおそらく賛成するはずだ。
は宮殿を後にすると邸へと戻った。
戦後の疲れを癒すため、今日も凌統がのんびりと庭で寛いでいる。
お帰りと声をかけとんとんと座っていた石を叩く凌統に歩み寄り、指し示されたとおり真隣に腰を下ろす。
座った瞬間体が軽くなったような気がして、宮殿では緊張していたと確信する。
凌統の隣は暖かくて柔らかくて、ほっとする。
あの時曹休の手を取らなくて良かったと、今ならはっきりと断言できる。



「殿はどうだった?」
「政務でお疲れのご様子でした。肉まんを片手にお越しになられていて、匂いがとても美味しそうでした」
「練師殿が作ってくれたんだろうね。俺らも久々にあの店に食べに行く?」
「良うございますね。此度の一件では店主にもご迷惑とご心配をおかけしてしまいましたゆえ、謝罪も兼ねてぜひ」
「だったら尚更行っとかないと。これからも俺の嫁さんをよろしくお願いしますって」
「それから、殿下より任務を拝命いたしました。合肥へ参ります、兄の弔問として」


 何を言われるかと身構えていたが、何も言われない。
そっか答えただけで、嫌味も皮肉も降ってこない。
興味を失くされてしまったのだろうか。
不安になり、思わず夫の顔を仰ぎ見る。
にこりと笑いかけた凌統の笑顔には目を瞬かせた。



「殿のご命令に文句は言えないしね。行ってきなよ。そういうけじめはつけた方がいい」
「よろしいのですか?」
「本音を言うとそりゃあ行かせたくはないけどね。でもの気持ちとか俺なりに考えてみると、やっぱ行っといた方がいいと思うんだ。そうでないと俺らはこれ以上歩み寄れなくなっちまう気もして」



 例えば一人きりになった時、が深いため息をついていたことを知っている。
ぼんやりと詩集を眺めてみたり、陸遜の奥方から譲られた鳳凰の衣装を撫でていたり、心ここにあらずの日々が増えていたことにはとっくに気付いていた。
そして、それら空虚な時間があることをすべて覆い隠して接していることに、わずかながらに腹も立っていた。
いつになってもは自分の心の内を曝け出してくれない。
出会ったばかりではない。
捕らえたばかりでもない。
共に暮らすようになって随分と経っても、は壁を作り続ける。
すべての垣根を取り払うことは初めから期待していない。
行きつけの甘味処が妙に賑わい始めたのも、朱然の肉まん大量購入だけが理由ではない。
初夏の桃まん祭りだの秋の葡萄収穫祭だのを開催できる、やたらド派手な交易路を手に入れたからだ。
兄の好きなものは妹も好きなはず、兄が美味しいと思ったものは妹にも食べさせたい。
亡き魏帝が兄馬鹿を惜しみなく発揮していたのだろう。
建業には確実に、着実にを見守りあるいは監視するための拠点が作られつつあったのだ。
はずっと知らなくて良い。
知ればきっと、は生き辛くなるだろうから。



「私兵は連れてきなよ。出立はいつにする? 途中まで送ろうか」
「明日の早朝にでも参りましょう。山越族の何かと思われているようでしたので、少し粗野な身なりになりませんと・・・」
「まいったね、そんな服はないよ。ていうかは立ってるだけで上品だから、誰もあいつらの女房風情には見やしないと思うよ」



 昔は今よりも更に輪をかけて堅苦しかったが、なりに慣れてきているのだろう。
下手に取り繕ってぼろを出すよりも、いつも通りの状態で通った方がいい気もする。
だが、扮装を張り切っているの熱意に水を差したくもない。
まあいいか、に任せよう。
凌統は、室内に戻るなりどこかからが引っ張り出してきた色褪せて黴臭い衣に、駄目だと即答した。





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