公主様の帰還 8
船に揺られている間は、いつだって非力だ。
初めて船に乗った時よりも酔いはしなくなったが、今日の気分は炎に包まれたあの日の次くらいに悪い。
は胡分たち熟練の漕ぎ手によって長江上を漂う小舟に身を任せ、うとうとと石亭での出来事を反芻していた。
思い返せば、起こした行動の何もかもが短慮によるものだった。
かつて父の身辺を守っていた馴染みのある武具の数々を見て、懐かしさに包まれてしまった。
ここではないどこかで誰かがその存在を喜んでくれるかもしれないと、余計な気を回してしまったのがいけなかったのだ。
凌統が何も言わないからと言って、すべてが許されているわけではない。
孫権が関わってこないのは、国主には他に目を向けるべきことがあるからだ。
ほんの少し考えればわかることが、理解できなくなっていた。
帰ろうと思えば戻れた、置いてきた家族が愛しかったからだ。
きっと、そう思うことすらもはや許されないはずなのに。
「・・・文烈殿はご無事でしょうか」
「姐御」
「皆の命を危険に晒したのは、わたくしの短慮によるものです。申し訳ございませんでした」
「頭を上げて下さい、姐御。俺らが周魴のことをもっとちゃんと見張っとけば、姐御がお辛い目に遭うこともなかったんです」
「そ、そうですよ姐御! さっきの魏将もきっと逃げられてますって! 姐御があそこまで体張ったんです、生き延びないととんだクソ野郎どもですぜ!」
「姐御を迎えに行く途中、魏軍の増援を見かけました。今頃はもう合流してるはずです」
「胡分、お前ほんとに抜け目ねぇなあ。舟だってどこでくすねてきたんだよ」
「へへっ、姐御からもらった金子全部はたいて買ってきた!」
「ばっ、馬鹿野郎! ひとりでいいかっこしやがって・・・。帰ったらちょっぴり恵んでやるよ!」
私兵たちの有事での行動力には、目を見張るものがある。
甘寧の子分となる前から、安穏とした環境に身を置いていなかったのだろう。
慌てた時は慌てるが、状況はきちんと把握しており柔軟な対応もできる。
もし護衛が正規兵だったら、きっとこの命は石亭の地下牢で終わっていた。
魏軍と一時的に手を組むなど、孫権軍の兵ならばまず選べない。
私兵たちの選択が最も正しかったと思う。
満寵と徐晃を連れて来たことについては、引きが良すぎて策かと疑ったほどだ。
「でもさすがは姐御っす! 魏将とも対等にやり合うなんざ、俺らなんて取っ捕まって怯えきってたってのに・・・」
「満寵殿は、軍略のみを心に留める信の置ける将でございます。おそらく、この戦いで唯一話を聞いていただける相手でした」
「へえ、あんなだらしないナリしてても頭いいんですね! にしてもやっぱ姐御はすげぇや、あのドタバタの中で敵の性格まで読むんだから」
「けど姐御、こういう無茶はもうやめときましょう。そりゃ俺らは姐御を命に代えても守りますけど、国相手だとさすがに無理っす」
「ええ、そなたたちの言うとおりです。今後は身を慎まねばなりますまい・・・」
これ以上動き回れば、凌統にも良からぬ視線を向けられる。
彼の孫呉に対する忠誠心を裏切るようなことはしたくない。
はすっかり離れた対岸へと体を向けた。
戦いはまだ、終わりそうになかった。
が曹休の名を呼んだ時、自分でもぞっとするくらい心が冷えた。
次に彼女が何を言うか、どう動くか。
返答次第でどうなっていたことか。
は無事に手元に帰ってきた。
仮に曹休の手を取っていようものならば、たとえが泣き叫ぼうとその場で彼女の身内を斬って捨てていた。
曹休を逃がすための囮にこそ身を投じたが、彼女が大した怪我もなく、間違った道を選ぶこともなく帰還したことでひとまずの目標は達成した。
はとても疲れた顔をしていた。
単なる小旅行のつもりが、予期せぬ戦乱に巻き込まれたのだ。
完全に癒えることのない足で必死に走ったおかげで体はふらついていたし、ろくに眠れなかったのか顔色も悪かった。
赤壁で捕らえた時と同じくらいに疲れきっていた。
「おお凌統殿! 奥方は救助できたのか?」
「ああ、心配かけたね。だいぶ疲れてたみたいだけど建業に帰したから、これで心置きなく戦える」
「奥方に筋を通されたようで良かった。しかし、非力な奥方まで狙うとは魏も卑劣なことをする」
「俺の嫁さんは非力じゃないからね」
をまず初めに襲ったのは周魴の部隊だが、それは言わない方がいい。
彼も今や石亭、更には寿春奪取のための追撃に注力しており、戦の前に捕らえた女のことなどすっかり忘れているに決まっている。
万一疑われるようなら、妻は妻で密命を帯びて陽動に出ていたとでも言えばいいのだ。
その程度の芝居はには朝飯前のはずだ。
何せ彼女は、曹魏の主だった将の前で有象無象の賊徒の妻になりきっていたのだから。
「の部下の話によれば、敵さんは救援ついでに各所に兵を潜ませてるらしい」
「陸遜殿が放った偵察部隊からも同様の報告が上がっている。我らは嵐のごとき勢いで伏兵をなぎ倒そうぞ!」
「そうだな丁奉、あんたの言うとおりだ。さて、進軍といきますか」
もしも曹休を討ち取ったら、はどう思うだろう。
彼がいる限りの望郷の思いが消えないというのであれば、是が非でも消してしまいたい。
はこの先、一生孫呉の地から出さないつもりだ。
には、彼女にとっては味方でも孫呉や自分にとっては敵でしかない存在が多すぎる。
が魏の手に渡るのを防ぐためならば何だってするつもりだ。
たとえそれがの意に反するものだとしても。
「ところで凌統殿、奥方付きの従者の中にひとり、頭の切れる男がいるだろう。彼が何者かご存じか?」
「胡分のことか? から大層な名前もらって喜んでた奴だろ。正直あいつだけ頭の出来が他の奴らと違う気がするけど、まあ甘寧の元子分に変わりはないかな」
「そうか・・・。いや、奥方が出航される前に用立ててきたらしい船を検分したが、魏が仕立てたものだった。後々は投降用にも偽装できるからと言っていたが、少々違和感を感じたのだ」
「悪いが、甘寧の元子分の素性は俺もよくわからないんでね。まあ、を守ってくれるんなら夫としちゃそれで充分」
真に疑わしくなった時は、適当な理由をつけて遠ざけてしまえばいい。
どうせは今後外へ出る機会が減るのだ、私兵たちの仕事も自然消滅するだろう。
凌統は一足先に追撃の隊列に加わった徐盛と丁奉の頼もしい背中を見つめた。
彼らと力を合わせれば、曹休を討ち取ることもできるはずだ。
早く国に帰り、とゆっくり話したい。
これまでのこと、これからのこと、話し合うことはたくさんある。
もう知らないふりも寛容なふりもできない。
妻に甘く優しい鷹揚な夫は、今日で終わりだ。
あのまま逃がして良かったのか、今でも答えは見つからない。
本当はもっと間近で無事を確かめたかった。
本当は連れて帰りたかった。
敵将をみすみす逃がしたが、孫呉に戻り心穏やかに過ごせるとは思えない。
曹家千里の駒ならば、彼女を窮地から救い出すべきだったのでは。
曹休は道中出くわしたいくつもの伏兵から逃れ着いた先で、石亭で別れたの身を案じていた。
古傷があるのか、懸命に走る姿にはぎこちなさがあった。
だが、そんなものは馬に乗せてしまえば何の問題もない。
敵からも、からも逃げてしまったのだ。
これでは曹丕に合わせる顔がない。
「曹休殿、そう気に病まずとも良いかと。勢いを借り進軍を続ける孫呉を迎撃し、着実に兵を削げば良いだけのこと」
「すまない、司馬懿殿。俺は子桓殿から預かった兵を危険に晒してしまった・・・。すべては俺の浅はかさのせいだ」
「人を信じることができるのは曹休殿の美点かと。道中お会いしたお方も、今は後方へ下がったと報告は受けております。安心なされよ」
「なんと・・・、司馬懿殿は殿のことを知っているのか!?」
「少々因縁がございまして。この場で捕らえてしまえば良かったのですが、また機会はありましょう」
「そうだな・・・。やはりすぐに人を騙すような国に殿を独りで置いてはいられない。早く保護して差し上げねば!」
も曹休も、何も知らない。
舟を引き取ったの私兵のみが企みに気付いたかどうか、おそらく何も考えていないはずだ。
大混乱の戦闘の中、簡単に複数人が乗り込める舟を用立てることができるはずがない。
漕ぎ手に扮した兵を潜り込ませあわよくばを奪取しようともしたが、素性の知れぬ余人はいらぬと突っぱねたのには感心した。
どうやら、の人を見る目は確からしい。
自身に忠実な用心棒を見出す才は曹操とそっくりだ。
戦況を冷静に見る目もあれば良かったのだろうが、人を信じてしまうのは曹休と似ている。
信じたおかげで満寵たちの助力を得ることができたのだが。
の死中に活路を求める胆力は、彼女の人生においていくつもの困難を経た上で身につけたものだろう。
殺そうとしても殺せない、だからますます握り潰したくなる。
「司馬懿殿、あなたのおかげで俺は守るべき大切な方を喪わずに済んだ」
「それほど、あの方は得難いものなのですか?」
「ああ、俺にとってはもちろん、子桓殿にとってもとても大切な人だ。これからも殿を陰に日向に支えてほしい」
「・・・・・・」
助けるつもりは毛頭ない。
殺し損ねた憎い女としか考えたことはない。
いたずらに戦場をかき回し、孫呉はさぞや迷惑しただろう。
そのまま放逐されればよいとすら願ってしまうのだ、と相対したら言葉を交わす前に武器を突き付けてしまいかねない。
妹を殺したがる輩から守るのが兄の務めだと、そう思わんか仲達。
出陣前、牽制とも取れる言葉を寄越してきた曹丕の、過ぎた昔を思い起こすような表情に嫉妬した。
先へ進まなければならない魏帝を繋ぎ止めようとする不肖の妹の存在を憎く思った。
兄を想うなら死んでくれと、そう彼女に言ってやりたい。
今回はその機会を逃してしまったが、まだ諦めてはいない。
「曹休殿。生憎私はあの方を憎いと思っています。ご期待には応えられません」
「不思議だな。以前、他の人物も似たようなことを言っていた。会いたいのに会えば憎くて殺しそうだと。可愛さ余って憎さ百倍、というものだろう!」
実際に会ってみるまで、司馬懿殿は死ねないな!
快活に笑い立ち上がった曹休を、司馬懿は黙って見上げた。
この人は、どこまでもとても明るい。
彼をここで死なせるわけにはいかない。
曹休を喪えば、と会う機会も二度となくなる。
これ以上負けられない。
被害を最小限に食い止め、曹丕にありのままの報告をしなければ。
司馬懿は真っ黒な羽扇を手に持つと、曹休の後に続き城壁へと駆け上がった。
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