公主様の帰還 7
盗賊崩れの男が、泣きながら頭を下げている。
虎と呟いた曹休が小首を傾げているが、彼の疑問に構っている暇はない。
城内の作りを確認し、脳内であらかたの図面を描く。
牢らしいそこは警護の兵も少なく、姐御奪還自体はすぐに達成できそうだ。
面倒が起こるようなら、脱出した時点で彼女も含めて殺してしまえばいい。
怒号渦巻く兵の群れを潜り抜け、城中央の牢獄へ辿り着く。
ひっそりと静まり返ったそこは、本当に人がいるのかと疑ってしまうほどに暗くて冷たい。
牢の前に呉兵が複数転がっているが、姐御とやらの仕業だろうか。
姐御、姐御ぉ!
泣き声のような悲鳴を上げ、男達が牢の柵にしがみつく。
どんな人物だろうか。
途切れ途切れに聞こえてくる声に満寵は耳を傾けた。
「姐御ぉ、良かったご無事で・・・」
「心配をかけました。2人とも怪我はございませんか?」
「へえ、平気です! 胡分が退路を見張ってます。もうこんな、どっちが味方かわかんないとこなんてとっととずらかりましょう!」
「でもこの鉄柵、姐御さすがに溶かせないですよね?」
「ふむ、拙者が手を貸そう」
「・・・お待ち下さい。ここに、あなた方以外の者がいるのですか?」
「あっ、いやその、これにはいろいろ訳があって・・・。姐御を逃がすために一時的に手を組んだというか・・・」
「彼らの言うとおりだよ。私と彼らは取引をしたんだ。幸い彼らは私たちの首に興味はなく、あなたの身の安全しか考えていなかったからね。命が助かるあなたにとっても悪い話ではないはずだ」
姐御と呼ばれる女は、どうやらこちらが勝手に思い描いていたよりも理知的な人物らしい。
会話の節々に出てくる燃やすだの溶かすだのといった不穏な言葉は気になるが、孫呉の将はやたらと燃やしたがるので彼女もその類なのだろう。
下僕根性と呼ぶべきか、主の前では大人しくなってしまった私兵たちを援護すべく満寵は牢の前に歩み出た。
牢獄に座り込んでいるのは、およそ賊徒の一味とは思えない品のある身なりをした女性だ。
どこかで見覚えがあるような気がして、満寵も首を傾げた。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことが?」
「あなたは?」
「満伯寧。こちらの彼は徐晃殿」
「直にお会いするのはこれが初めてかと」
「否定をしないとは面白い人ですね。ただ、ここで時間をかけている暇はない。詳しい話は道中おいおい聞くとして、まずは牢からお出まし願いたいのですが」
決して笑ってはいない張りつけたような笑顔で壊された出口を指し示す満寵から、はふいと視線を逸らした。
話したことはない。
見たことはあるかもしれないが、どんな人物か知るほど彼に馴染みはない。
許昌の各所に配備されていた奇天烈な兵器が満寵の力作だと教えてもらったことはある。
触るな怪我をすると、かつて夏侯惇や荀彧から真剣な表情で止められたのはいい思い出だ。
は抗う術もなく地上へ出ると、わあと取り囲んだ私兵たちへ改めて声をかけた。
「公績殿はご無事でしょうか」
「姐御探すのは俺たちに任せるって話だったんすけど、たぶん姐御探し回ってると思います」
「この場にいる魏将は満寵殿と徐晃殿、お二方だけでございますか?」
「いや、曹休もいたんすけど」
「曹休殿は、自分がここに留まっていては怪しまれると少し離れたところにいる。私たちが動き出したら合流する手筈になっているから心配はいらない」
「やむを得ず退路を使われたという体にいたしましょう。満寵殿、牢を燃やせば呉軍はいくらか兵をそちらへ割くと思われますか?」
「名案です。ただ、それではあなたの身が危険になるのでは」
「突然の戦闘に逃げようとして牢を灰にしたと言えば納得していただける国なのです、ここは」
派手な火柱を上げ燃え盛る牢に背を向け、は懸命に足を動かした。
曹休は満寵たちと合流できただろうか。
彼らはきちんと後ろをついてきているだろうか。
ちらと振り向くと、絶妙な距離で3人の影が見える。
今はとにかく石亭から脱出したい。
何が真実なのか気にはなるが、知るのは一息ついた後でも構わない。
凌統には大きな迷惑をかけてしまったが、彼は立場も含めて本当に無事なのだろうか。
心身ともに疲れ切った今の状態では、凌統の傍に行っても邪魔になるだけだ。
会いたい。
ずっと会っていないような気がする。
陸遜夫妻の事件からこの方、凌統には心配をさせてばかりだ。
家で夫を癒すだけが妻の務めではないと凌統は言ってくれるが、彼の気遣いに甘えてばかりだった。
やりたいようにやって、後先考えずに思いの向くままに行動して挙句疑われて。
この身は凌統に何も遺せてやれていない。
「、!」
「公績、殿・・・?」
どこかから、愛する人の声が聞こえる。
ようやく出口が近付いたようで、後を追っていた満寵たちの足音も近くなったように感じる。
、!
凌統の声が次第に大きくなり、は走る速度を緩めた。
声はいったいどこから響いている。
出口の胡分は大きく手を振っていて、彼の周囲に凌統はいない。
城壁の上にもいない、左右にもいない。
凌統は今、どこにいるのだ。
は小さな出口を潜り抜けると、胡分の顔を仰ぎ見た。
もう走れない、足が震えている。
「姐御! そのまま川辺まで突っ走って下さい!」
「え・・・」
「凌統様が姐御の後ろの魏将を追撃しています、関わり合いになるのは良くない」
「で、も、・・・このままでは文烈殿が!」
「殿!」
「文烈殿!?」
もう少し走れ、がんばれと不器用な声援をかけながら並走する胡分につられて川まで走る。
体力はもう尽きている、一度立ち止まれば動けないほどに足が悲鳴を上げている。
は背後の絶叫に思わず振り返った。
艶やかな黒髪をひとつに束ね、一心不乱に駆けている男がいる。
忘れもしない、間違いない、曹休だ。
曹休のすぐ後ろには凌統がいる。
連戦続きの曹休に比べ、出撃したばかりの凌統は気力体力共に旺盛だ。
このままでは曹休が捕らえられてしまう。
曹休が宗室に捧げている忠誠心は誰よりも重く、深い。
降伏を促され膝を折るような志は、どんな屈辱的な目に遭おうと持っていない。
曹休が殺されてしまう、それは嫌だ。
は押し留める胡分の腕を振り解くと、すうと息を吸い込んだ。
「文烈殿! 曹家千里の駒ならばっ、主の待つ地へ戻ることこそ文烈殿の使命です!」
「、何言って・・・」
「公績殿! わたくしは、ここに!」
凌統の目的は曹休の首ではなく、妻の身柄の保証だ。
自らを囮にすれば、曹休たちはひとまずは撤退することができる。
犠牲ではない、遅れて発動した罠でもない。
誰もがそれぞれの第一の目的を達成しただけで、誹りを受けることは何もない。
安全な姿を確認した凌統が走りを緩め、曹休たちを追うのをやめる。
凌統がゆっくりとこちらへ歩いてくる。
怒っているような泣いているような、形容しがたい表情を浮かべている。
「」
「・・・お叱りは存分に」
「いや、いい。あの場で俺が仕留めなくても、要所に配した伏兵のどこかが討ち取る算段だから」
「それは、いったい・・・」
「、悪いけど建業に戻ってくれないかい? 誰もが悪いなんて思ってないから気にしなくていい。なんなら、を殴りつけた奴を処罰したいくらいだっての」
凌統の指が、周魴麾下の兵に腫れた頬にそっと触れる。
触れられたことによる痛みで、殴られたことを思い出す。
目に余る狼藉を働こうとした暴徒は倒したので、殴った程度の輩のことなどすっかり忘れていた。
凌統の指はとても冷たくて震えている。
吐かれる息はとても熱いのに、指だけは血が通っていないかのように冷めきっている。
歴戦の将でも、戦場で震えることがあるらしい。
思わず頬に添えられて手に自分の手を重ねると、凌統が小さく笑う。
ここで少しでも彼を安心させ足止めをしておけば、少なくとも凌統は曹休追撃に加わらない。
後はどうすれば時間稼ぎができるだろうか。
凌統は、無言で俯いてしまったを抱え上げると小舟に乗せた。
胡分たち私兵に後は頼むと告げると、へいと独特の返事が返ってくる。
「公績殿、行かれるのですか」
「が俺を足止めしたい気持ちはわかるし俺もの傍にいてやりたいけど、続きは全部終わってからだ」
のこと、ちょっとだけわかった気がする。
そう言い残し追撃の集団へ加わっていった凌統の声は、指と同じくらい冷たかった。
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