公主様の帰還 5
姐御が見知らぬ風体の男に話しかけられている。
かつての自分たちへもそうだったように、は見てくれで人を判別しない。
たとえ相手が半裸でも入れ墨だらけでも剃髪していても、分け隔てなく接してくれる。
それは彼女の愛すべき美徳だが、私兵となった今は少々不安にもなる。
は、時折こちらが腰を抜かすほどに世俗を知らない。
先程も、武具の下取りで金子を得られるとは知らなかったようで大層驚いていた。
頭は間違いなく良いのだが、いつか騙されてしまいそうだ。
胡分は酒場へ入ろうとしている仲間たちに声をかけると、主の元へ駆け寄った。
剣呑な表情を浮かべていることに気付いたのか、男が眉を潜める。
「奥方殿、失礼ですがこの者たちは・・・」
「わたくしの身辺を守る者たちです。胡分殿、こちらは周魴殿。郡太守を務めておられていて、公績殿の依頼でわたくしたちを迎えに来て下さったそうです」
「なんだってそんな大層な方が、一私人の姐御を直々に?」
「確かに、姐御にベタ惚れの凌統様ならまず人寄越す前にご自分で迎えに来るんでは? 俺らが言うのもあんまりっすけど、こんな怪しい風体の奴選ぶほど凌統様は野暮じゃねぇや」
「皆、言葉を慎みなさい。申し訳ございません周魴殿、わたくしが行き届かぬばかりに不快な思いをさせてしまい」
「いえ、いえ滅相もない。従者の方たちの言い分もごもっとも。しかし私は真に凌統殿から頼まれてこうして伺ったのです。どうかご夫君の思いだけは汲み取っていただきたい」
凌統直々の頼みとやらをが信じるかどうかは彼女に任せるとして、やはり、この男は少々不気味だ。
髪を剃るということがどういう目で見られるかわからぬほど、は世間知らずではない。
万事身だしなみや風紀に目敏いならば、真っ先に咎めるものだ。
何かがなければ、周魴は今の姿にはならない。
それを詳らかにするのは決して越権行為ではない。
主の命を守るために必要な予防だ。
胡分は同輩たちに目配せした。
彼らも何かしらの違和感には気付いているようで、さりげなくを守る位置へ配置を変えている。
「姐御、俺は一足先に姐御の行程の露払いをしてきます」
「いや、その必要は」
「周魴様、悪いがこれは姐御をお守りする子分・・・じゃない、私兵としての大切なお役目なんです。目を瞑ってもらってちゃいけねぇですか?」
「周魴殿、わたくしからもお願いいたします。胡分は有事があればすぐに報せを出す機転もございます」
「し、しかしそれでは・・・」
「それとも何か? お手前は俺らに好き勝手動かれちゃ困ることでも?」
「いや、そのようなことは!」
「だったら何の問題もあるめえ。お前らは姐御の護衛を頼んだぜ!」
自分が去っても、の傍には2人の私兵が残る。
ひとりが壁となっている間に、ひとりがを逃がすことができる。
行く先に危険があると事前に把握すれば、それを退けるのが自分の役目だ。
それに、誰の監視もない自由に動ける駒がひとつあった方が絶対にいい気がする。
たとえこの身がどうなろうと、二度と主は喪わない。
甘寧を守ることはできなかったが、のことは何があろうと守るのだ。
皆、それだけの覚悟と矜持を胸にに仕えている。
「では姐御、また後程」
くれぐれも気を付けて、胡分殿。
胡分とが石亭で落ち合うことはなかった。
随分と懐かしい品々が運ばれてきた。
曹休は周魴から提供された虎豹騎の鎧を受け取り、感嘆の息を漏らした。
一見すると何の値打ちもない襤褸だが、孫呉にも目利きの商人がいるらしい。
「すごいな・・・これを一体どこで?」
「皖で引き取ったとのことです」
「そうか。その商人はよほどの目利きなのだな、一言礼を伝えたいくらいだ」
「逗留させております。呼びましょうか?」
「ああ、ぜひ頼む!」
周魴は曹休を残し部屋を出ると、苛々と中庭を見やった。
凌統の妻自身は、大層上品で美しい妻だった。
問題は彼女の供回りだ。
何をどう選べばあのような粗暴な連中を私兵として使うのか理解ができない。
妙に勘がいいし、警戒もされている。
貴様らの方がよほど怪しいと何度口から出そうになったことか。
今も凌統が来るまではと城内を隈なく歩きまわり、ひとりは必ずの傍にいる。
も、むさ苦しい男に四六時中張りつかれて気持ち悪くないのだろうか。
やんわりとそう尋ねると、小言を言われることがないので何も気にならないと返された。
まったく面白くない。
気に入らないといえば、同じころに拘束した商人にも苛立ってしまう。
やたらと荷が多かったため検めると、出てきたのはガラクタだらけだ。
商人にしては態度も不遜で、問い詰めてものらりくらりと躱してばかりだった。
ようやくどうにか曹魏のかつての武具だと白状させ、曹休を絆す策略の一助になればと留め置いている。
周魴は別室で退屈そうに茶を飲んでいた商人を呼びつけると、曹休に引き合わせた。
部屋に現れた商人は、机の上に広げられたガラクタの数々におやと呟いた。
「お前がこれを扱っていたと周魴殿から聞いた。これはかつて曹操様の親衛隊だった虎豹騎のもの。おそらくは赤壁の戦いで四散したのだろうが、よく探し当ててくれた」
「はあ・・・、それはようございました」
「はっはっは! 魏の将軍曹休様より直々にお言葉を賜り恐縮しているのか?」
「いえ・・・。私はこれを虎豹騎を率いていた方に渡してくれと頼まれただけですので、価値は正直なところさっぱりで・・・」
「しかしお前はこれを下取りしたのだろう?」
「持ち込まれた方が渡せばきっと喜ぶはずと仰っておいででしたので、それを見越して金子はお支払いしましたが」
「いったいどのような人物が持ち込んだのだ? 兵か?」
「いえ、ご婦人です」
先程こちらでお見かけしましたが、あのお方はなぜこちらに?
そう険しい表情で尋ねてくる商人から、周魴は目を逸らした。
まもなく戦火交える地となる石亭にいる女は、数えるほどしかいない。
その中でも外から来た者といえば、あの莉杏しかいない。
虫も殺せぬような穏やかな物腰でいながら曹魏の中枢だった部隊に精通しているなど、凌統には悪いが不審でしかない。
よもや、曹魏と内通しているのでは。
こちらの策が実はどこかから漏れていて、高官の妻という自由が利く身分を利用して逆手に取ろうとしているのでは。
一度そう考えてしまえば、許昌まで出入しているという商人の冷ややかな目にも納得することができる。
凌統はあの女にまんまと騙されているのだ!
「むう、気になるな。その者に会うことはできるだろうか、周魴殿。俺は心当たりがないが、満寵殿や徐晃殿なら何か知っているかもしれない」
「ええ、どうにか言いくるめてこの地に留めておきましょう」
石亭への道中、先に私兵をひとり放ったのも言葉以外の意味があったに違いない。
だが奴もまもなく捕らえられるはずだ。
凌統が変心するとは微塵も思えないが、余計な情報に錯乱されるのは避けたい。
周魴は曹休や商人と別れ兵を集めると、真っ直ぐ中庭へと歩き出した。
何も感付かれていないと高を括っているのか、のんびりと先程の商人と語らっているをすぐに見つける。
傍には供が2人、やはり先に抜けた男の姿はない。
露払いとやらにどれだけの時間がかかるのやら。
周魴はそう吐き捨てると、の元へ大股で近付いた。
武器をちらつかせていても、臆する様子はまるで見せない。
私兵たちがを守るように立ちはだかる。
これに見覚えが?
どさりと無造作に打ち捨てた鎧に、が眉を潜めた。
「わたくしが商家の者に託したものでございます」
「これが誰の何か知っての上で?」
「なにゆえこれを周魴殿がお持ちに? この者とも話しましたが、わたくしは此度の一連の動きに少々不審な点がございます」
「どの口が言うか、この裏切り者が!」
を守る私兵たちから放たれる殺気がぐんと上がる。
がひたとこちらを見据える。
気圧されている。
たかがひとりの女にたじろいている。
は周魴が立ち竦んでいる間に鎧を拾い上げると、商人へ手渡した。
陛下へお伝えいたしましょうと囁く商人に、無言で首を横に振る。
妹離れのできない兄だ、この程度はやって当然とでも思っているのかもしれない。
しかし、今の状況は理解しがたい。
周魴はこちらを捕らえるつもりだが、理由がわからない。
裏切者とはいったい何だ。
あれを持っていただけで曹魏の内通者と呼ばわるのであれば心外だ。
孫呉にとっては無用の長物を、思い出を抱く人々へ返還して何が悪い。
「姐御、ここは俺らに任せてお逃げ下さい。外には胡分もいるはずです」
「なんなら中庭一面燃やしたっていいですぜ!」
「・・・わたくしもあなたに尋ねたいことがございます。なにゆえこの地には、これほど曹魏の手の者が多いのですか? 隠しておられるようですが、わかります。孫呉を謀ろうとなさっているのは周魴殿、あなたご自身では?」
多勢に無勢。
どんなに私兵たちが獅子奮迅の働きを見せようと燃やそうと、取り囲まれていては打つ手はない。
それに、今の自分は夷陵で受けた裂傷のおかげで未だに長く走ることはできない。
凌統の妻という肩書がある以上この場ですぐに殺されることはないだろうが、曹魏に引き渡されると面倒なことになる。
周魴には馬鹿なことを考えず孫呉に残るよう思い止まってもらわなければならないが、向こうはこちらをまるで信じていない。
周魴が無言で手を上げる。
じわじわと狭まる包囲網に、逃げられる隙など見つけることはできない。
今はただ、石亭の有事を外へ伝えなければ。
迎えに来るであろう凌統に、一刻も早く来るなと伝えなくては。
「わたくしを置いて行きなさい」
「姐御!? な、な、なんてことを!」
「反論は許しません。これは命令です、良いですね」
「姐御ぉ~~~」
「安心なさい。では、また」
背後から、うわあああと号泣しながら包囲を蹴破っていく私兵たちの叫び声が響き渡る。
裏切者にくれてやるほどこの命、安くはない。
私兵たちは必ず凌統の元へ行くだろう。
妻の安否はともかくとして、内通者をそのままにしておくような真似を陸遜たちが許すはずがない。
援軍は来るのだ、だからそれまで耐えればいい。
は、生まれて初めて牢獄に繋がれた。
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