梔子は明日綻ぶ
穏やかに流れる建業宮殿外の水路脇を、と太史慈が並んで歩いている。
気ままに歩くの横に並ぼうと、太史慈が懸命に歩調を合わせ話しかけている。
も女性の中では目立つ背丈だが、隣に並ぶのが太史慈なら華奢に見える。
結局、彼女の隣に立つことは一度もなかった。
孫策を挟んでしか彼女は自分を見はしなかった。
初めて感情のままに行動したあの日、後先考えずに真正面から伝えていれば変わっていたのだろうか。
その日々はもう二度と戻らない。
は今も着実に歩き続け、亡き友と戦場を縦横無尽に駆けていた自身はいつまで経っても足踏みしたままだ。
水路を挟んだ先の四阿からぎこちない2人を眺めていた周瑜は、がこちらを向いたまま立ち止まっていることに気が付いた。
手を振るたびに揺れるひとつに括った髪が、亡き友と重なって見える。
ただの一度も孫策とを同じように見たことなどないのに。
彼女はずっとだったのに、だ。
何かと理由をつけて彼女と顔を合わせようとしていた下心を、おそらく孫策は知っていた。
知っていて知らないふりをしてくれていると知った上で彼女に近付いていた自分は、とても狡い男だったと思う。
「周瑜、ねえ、周瑜」
「私は君には及ばない」
「急にどうしたの。貴方、本当に私個人に対しては何も思わないのね」
「・・・ああ、いつの間に。先程まで太史慈と仲睦まじく語らっていただろうに、君も罪深いことをする」
「ほら、やっぱりずっと私たちを見ていたでしょう。きっと私に用があるんだろうって言って太史慈殿は帰ったわ」
「そうだったのか。悪かった、君たちの逢瀬の邪魔をするつもりはなかった」
「それ以上言うなら怒るけど」
そんなのじゃないのよと、向かいに腰を下ろしたが水面に視線を落としたまま口を開く。
つられて視線を動かすが、浮いているものは何もなく、の姿しか映さない。
素足を惜しげもなく晒しているが、先程までのはきちんと小綺麗な靴を履いていた。
周瑜はの前に屈むと、手持ちの布を取り出し剥き出しの脚にそっと触れた。
布で隠せば見えないが、の足は傷跡が多い。
いつできた傷なのか、ほぼすべてを答えられる自信がある。
「まさかここを渡って?」
「それが貴方に会うには一番近かったの。水浴びするにはいい季節になったわ」
「まったく・・・、怪我でもしたらどうする」
「今更何を言ってるんだか。怪我なんてそこら中にあるって知ってるでしょうに」
「君が傷つくのは見たくない」
「確かに、あんまり粗相を重ねたら美周郎からお世辞を言ってもらうこともなくなっちゃいそう」
嫌がるわけでも恥ずかしがるわけでもなく、こちらのやりたいように身を任せてくれているの澄ました顔をそっと窺う。
孫策を喪ってからは変わった。
変わることができた。
自分を置いて先に行ってしまった。
主が変わり、孫呉の在り方も変質していこうとする流れに乗り込むことができている。
やはり彼女は届かない存在だ。
知らず知らずのうちに足を拭く手に力が入っていたのか、が痛いと小さく声を上げた。
「ねえ、何かずっと悩んでない?」
「さて、何を言っているのか」
「そうやってはぐらかして、それで誤魔化される私と思ってるの?」
「・・・すまない、考え事をしていた。君を巻き込みたくはない」
「劉備と組んで曹操と戦うって話? 太史慈殿から聞いたわ、貴方が軍を統帥するって」
「孫策や君が命を懸けて切り拓いて作り上げた孫呉の大地を、曹操たちに踏み荒らされるわけにはいかない。国と、国に住まう人々を守らなければならない。何に代えても、だ」
「・・・」
すっかり綺麗になった自身の足を見下ろしたが、無言で靴を履き直す。
戦の匂いがするものをに嗅がせたくはない。
他の誰が何を彼女に吹き込もうと、自分だけは彼女を戦の外に置いておきたい。
周瑜と名を呼ばれ、促されるままに元の席に腰を下ろす。
私は貴方の何かしら。
にじいと正面から見つめられ、周瑜は深く息を吐いた。
今になってようやく向き合ってくれるのか。
届くはずのない手を差し伸べてくれるのか。
は残酷なことをする。
「君は孫策が連れてきた、孫策と私にとっての唯一無二の友だ。君がどんなに孫策になりきろうとしても、私は君をとしてずっと見ていた」
「私が孫策しか見ていなかったと知っていても?」
「孫策を愛している君が愛おしかった。我が身を危険に晒しても孫策を追っている君をこの手に引きずり降ろしたかった」
「随分な言いようじゃない。まさか、墓場まで持っていくつもりだった?」
「君が困る顔は見たくない」
「あら、困ってるように見えていて?」
の指がそっと顔に触れる。
子どもの頃、孫策と共に仕掛けた悪戯が成功した時と同じようににっこりと笑っていると目が合う。
知っていたのかと震えがちな声音で尋ねると、まさかと即答される。
はひとしきり笑うと、胸をとんと叩いた。
「まだ私にできることがあるなら役目をちょうだい。貴方の策だもの、安心して命を預けられるわ」
「、私も君にひとつ尋ねていいだろうか」
「ええ」
「君はなぜそうまで他人に身を任せられる? 怖くはないのか?」
「怖いことももちろんあるけど、誰かのために生きるっていうのも案外悪くないわよ。死にたくてたまらなかった時、私のためにまだ死なないでくれって取り乱しながら言ってくれたのは貴方だしね」
伸ばすことすら諦め為す術もなく垂らしていた腕は、とっくの昔に届いていたらしい。
またがんばりましょうね、周瑜。
の朗らかな声を聞くと、決めきれなかった心の靄が晴れていく。
やっと一歩が踏み出せる。
周瑜はの耳元に唇を寄せると、秘中の策を囁いた。
あとがき
「くちなし」と読みます。ちょっと日が当たらないところでも綺麗に咲く花だそうです。
表で咲いた方が綺麗だと思う人と、別に日陰でもそこにいたいという人がいます。
周瑜が激重感情を肩に乗せてる人になりましたが、私の好物です。
Back
分岐に戻る