影は今日に置いていく
これは私のけじめだ。
誰も私を責めなかった。
他人を責める前に皆、自身の行動や進言に過ちはなかったかと自責の念を胸に抱いてしまったからだ。
孫策を中心に明るく賑やかにまとまっていた軍が、孫策が死んでしまった瞬間に水を浴びせられた炎のように静かになってしまった。
その状況を覆せと孫権殿に檄を飛ばせる人物もいない。
まだ出てこない。
「殿、いずこへ行かれる」
「少し探しものを」
「であれば俺も同行しよう。殿は手負いの体、無理は良くない」
「太史慈殿の手を煩わせるほどではないから大丈夫。それに今は少しでも体を動かして慣れさせないと」
「しかし、殿に何かあれば孫策殿に申し訳が立たぬ」
「いいのよ、もう。でもそうね、どうしてもというならついて来る? 何を見ても何もしないと約束してくれるなら」
太史慈殿は、孫策に強い思い入れがあった。
刃を交えたことで互いに相通じるところがあったらしい。
孫策の影を務めていた私に良くしてくれるのは、僅かだとしても私にも孫策の面影が残っているからだろうか。
孫策が死んで、私の役目も終わった。
孫策に似せて無造作に括っていた髪も、手入れを重ねた今は多少は見栄えが良くなった。
塗りたくっていた土や泥の代わりに化粧を施し、私の中に住んでいた孫策がじわじわと消えている。
だが、まだ私は忘れていない。
刎ねられた細い首が飛んでいった光景はしっかりと脳裏に焼き付いている。
孫策を見送ってからずっと、飛んだ首の在り処を探していた。
女の姿を見慣れない人々が多いから、誰に咎められるわけでもなく今までよりも自由に動けたことが大いに役立った。
でも、復讐と探索の日々も今日で終わる。
黙って後ろを歩いていた太史慈殿が、川辺の廃屋を覗き込み息を呑んでいる。
私は太史慈殿ににこりと微笑みかけると、口元に手を当てた。
もう逃さない。
再び飛ぼうというのなら、噛み付いてでも捕まえてやる。
太史慈殿を外に待たせたまま、私は廃屋に侵入した。
こんにちはと努めて明るく声をかけると、よう来たのうと応えた老人が振り返る。
首から上は于吉、首から下は知らない男が目の前にいる。
「もう逃げなくていいの?」
「そなたの執念なら、どこへ逃げようと首の下の男もろとも何度でも殺めるじゃろうて」
「そうね・・・。私もあなた以外を殺すつもりはないから、ね、一度きりにしましょう」
「そなたの胸に抱かれるんなら悪くはないのう」
目を閉じた于吉を前に、孫策愛用の武器と同じものを構える。
于吉はもう逃げない。
民のためとやらの理由で孫策を呪い殺した于吉は、自分のせいで無辜の民を殺められることを良しとしない。
于吉の言うとおり、私は于吉だけは逃さない。
どこへ逃げようと、誰の体を奪おうと、それが于吉になってしまった以上私は元の体の持ち主ごと何度でも于吉を殺す。
武器を一閃し、細い枝を折るより容易く于吉を刈る。
お望み通り胸に抱き、用意していた麻袋に首を放り込む。
もういいわと声を上げると、太史慈殿が家主が死んだ廃屋に駆け込んでくる。
「ありがとう太史慈殿。これでもうおしまい、孫権殿にお会いしましょう」
「呪われてはいないか? 体に異変は? 気分が優れぬとか・・・」
「ふふ、太史慈殿は実はものすごく心配性なのかしら。私が孫策を追いかけるのは今日で終わり。太史慈殿が孫策だった私を気にしてくれるのも今日で終わり」
「では俺は今日を始まりの日とする」
「そうね、それもいいかもしれないわ。今日、いいえ、明日からは新しい日が始まるわ。始めてもらわないと」
まだ何か言いたげな太史慈殿の背中を在りし日の孫策よろしくぽんと叩き、建業への道を戻る。
袋の中身はずっしりと重かった。
兄の影を務めていたが、どさりと袋を投げ落とす。
これでおしまいにしましょう、孫権殿。
兄も周瑜も目を細め愛していた女が、にこやかに微笑みながら鋭い檄を飛ばす。
傍に控えていた周瑜が袋の中身を検め、と声を上げる。
君は何をしてきたんだ。
孫策を喪ってからも顔色ひとつ変えることなく平静でいた周瑜が、血相を変えに詰め寄っている。
首をひとつ刈ってきたの。
そう淡々と答えるに、周瑜がそうではないと声を震わせる。
この人はが本当に好きで、けれども兄に遠慮して感情を押し殺し続けていて、もはやそれが癖になってしまっているのだな。
孫権は目の前で繰り広げられる昔なじみの人々の口論と床に転がる老人の首をぼんやりと眺めていた。
「于吉の首よ、孫策を呪殺した男の首。まさか顔を忘れてしまったの?」
「忘れようはずがない。だがなぜ君が行く。なぜ声をかけてくれなかった。君まで呪われてしまうかもしれないのに」
「貴方が来るよりも早く太史慈殿が案じて来てくれたの。護衛は2人もいらないわ。そんなことよりも孫権殿」
「あ、ああ! ご苦労だった、。だが周瑜が言うように決して無茶はしないでほしい。あなたが傷つくことは兄上も望んではいないのだから」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。孫権殿、孫策・・・孫策様を想い嘆き悲しむのは今日でやめにしませんか。不躾で無礼な具申とは承知の上で申し上げます。孫家を継がれた孫権殿が今思うべきは生きる民と治める土地でございましょう。立ち止まっている間にも時は進み、民は飢えます。どうかお顔を上げてくださいませんか」
ぎらぎらと輝く、臆することのない双眸にひたと見据えられる。
仇の首は取った、だからこれで終わりにしたい。
何かがなければ進めないとは考えたから、直前まで誰にも何も告げることなく区切りをつけに行った。
孫策を喪い、ももちろん苦しんだはずだ。
自らの命と引き換えに孫策は死んだと思い詰めていてもおかしくはない。
だが、は既に歩き始めていた。
どんなに辛いことがあろうと立ち止まらないを兄はいつも慈しみ、案じ続けていた。
孫権はに歩み寄った。
平伏しようとするの細い腕を引き寄せ、真正面に立つ。
視線を下げなくともすぐそこにあるの整った顔にそっと触れる。
視界の隅で周瑜が身じろぎしたのがなんとなく面白くなり、孫権は口元を緩めた。
「孫権殿」
「、頬に返り血がついたままだ。あなたに血は似合わない、洗ってきてくれ」
「いえ、このくらいは慣れたものです」
「あなたが戻ってくる頃には諸将も集まっていよう。私の決意を聞くために、な」
ぱぁと顔を輝かせたが、宮城を出るなり全速力で駆け出す。
遠ざかるの背中を名残惜しそうに見送っていた周瑜に、孫権はいいのかと問いかけた。
「もう遠慮する相手もいないだろう。私も支度があるゆえ、追いかけても気付かぬぞ」
「さて、何のことやら・・・」
「はは、そうきたか」
孫家棟梁の表明を聞きつけ、宮城に収まりきれない数の将兵たちが集合する。
背中を押してくれた影の功労者が群衆の最後尾に現れたのを見届けると、孫権は高らかに孫家の再起を宣言した。