氷天楼にご案内     11







 ぴったりと閉ざされた門を守る守衛とも顔なじみの関係になってしまった。
毎日通い詰めたおかげだ。
は今日も今日とて開かない宮城の門を見上げ、ため息をついた。
友人へ至る道はとてつもなく長く、遠い。
本来ならば率先して協力するはずの陸遜は全く動いてくれない。
一刻も早く建業へ戻りましょうと手配を進めているばかりで、友人の奪還については忘れてしまったようだ。
遠縁の娘に対して冷たすぎるだろう。
火計だのなんだのと日々喚いておきながら、身内にはこれほど冷酷だとは思いもしなかった。
身内となったからには餌は与えない。
ひょっとしたら陸遜はそういった系統の男だったのかもしれない。
最悪だ、先日芽吹いた好意が萎れた。
とはいえそろそろ親も嫁だ婿だとうるさくなってきたし、国に戻ったら朱然あたりに愚痴るのもいいかもしれない。
朱然ならば適度に良さそうな家を紹介してくれそうだ。
曹魏に攫われよくわからない理由で五体満足で帰還した、いわくが二重にも三重にもなった孫呉屈指の訳あり娘になったに興味を抱く家があるとも思えないが。
残念だが、我が家は恋愛結婚ができるほど余裕のある家格ではない。




「今日は陛下はおでかけだ」
「えっ、どこに」
「武帝廟と伺っている」
「そんなあ・・・。あっでもということは、友人は留守番してるのかも」
「ご一緒に出て行かれた」
「えっなんで!? 武帝廟って曹操の墓でしょ、そんなとこに連れて行かれるくらいに曹丕に気に入られちゃってるの・・・? いつの間に・・・」




 不在とわかっている人物を訪ねるような馬鹿はしない。
いつまで許昌に留まれるだろうか。
不本意にも身ひとつでやって来てしまったので路銀などあるはずもなく、悔しいが陸遜に頼りきりだ。
だが、江東では絶大な影響力を発揮する陸家の当主も許昌では何の力もないらしい。
このまま諦めて帰って、凌統に何と説明しよう。
聞く耳はないはずだ、彼は愛妻のこととなると周囲が見えなくなる一途な男だ。
単身許昌へ乗り込みかねない。



殿、今日のお勤めは終わりましたか」
「その嫌味な言い方やめてくれません? 今日は駄目です、曹丕と武帝廟に行ってるとか」
「そうですか・・・。もう、これ以上は待てません。馬の用意もできました、出立は明日です」
「そんな! ほ、本当にそれでいいの!? 助けてくれた人を見捨てていいの!?」
「彼女の覚悟を私たちも受け入れなければなりません。それが救われてしまった私たちが為すべきことです。殿にできることは何もない」



 言いたいことはわかる。言われていることも充分承知している。
打つ手は今はない。
使えるはずだった手はただの思い過ごしで、本当に曹丕はこちらには何の興味もなかったらしい。
例えば、二喬のようにもっと美しければ良かったのだろうか。
だが曹丕の妻は絶世の美女と名高いあの甄姫だ。
大した教養も素養もない身が取り入るなど無理な話だ。
は唇を噛み締めた。
数日ぶりに味わう血の味だ。
手首には未だに縄の跡が残り、あの時味わった恐怖は消えることはない。
ここに留まり続けるのは正直なところ、恐ろしくてたまらない。
また似たような目に遭ったとしても、次は助からない。
司馬懿という男は、おそらく今後も現れては生命を脅かしてくるのだろう。
そんな虎狼のような男がいる地に友人を残してはおけない。
あの男は今は殺し損ねただけで、いずれ友人を殺す。
そんな気がしてならなかった。



「・・・于禁殿は無事にご家族の元へ帰れたんでしょうか」
「おそらくは。さあ、私たちも帰りましょう。私たちの孫呉へ」



 はもう一度宮殿の方角を見上げた。
鳳凰を象った軍旗がたなびいていた。


































 取り乱すこともなく、淡々としている。
元々あまり感情を表に出さない娘だったが、それは変わっていないらしい。
もしあの場に間に合っていなければ彼女はどうしていたのだろう。
誰に似たのか炎をよく操る。
陸遜とかいう若造が苦し紛れに吐いていた遠縁の娘というのは、あながち嘘ではないのかもしれない。
彼女の母とは幼い頃に話したことがある。
体の弱い女で、自らが死んだ後の一人娘の身を案じていた。
心配はないと告げると安堵したように笑い、それから間もなく逝った儚い女だった。
その時から心に決めていたのだ。
これから先何があろうと、異母妹のことは守ると。
辛く寂しく、悲しませるようなことはしない、させないと。
不本意な形だったろうが、今こうして帰国を果たした彼女の胸の内はどうだろう。
父はおそらく、死んだ娘の生存を知っていた。
消息を誰から聞いたのかは定かではないが、司馬懿や賈クら主たる参謀も知っていた話を総大将が知らないはずがない。
取り返す機会は何度もあった。
例えば、関羽包囲網を築いた時。
言えば孫権は断ることも白を切ることもできず、求められるがままに差し出すことを余儀なくされていただろう。
保護していたとでも言っておけば恨みを買うこともなく、むしろ恩を売ることすらできたのだ。
実現しなかったのは、父が求めなかったからだ。
なぜ求めなかったのか、それは亡き父にしかわからない。
兄であり皇帝である自分さえ、矢と炎の中で立つ姿を見るまでは生存を知らなかったのだから。



「お前の友人を名乗る女が連日宮城を訪ねていると聞いた。おそらく今日も訪れているのだろうな」
殿には、どうか」
「興味もない女をどうこうするつもりはない。あれはお前の友人か? 江南の女がかくも無礼とは」
「とても強いお方です」
「命知らずは強いとは言わん。誰のおかげで生かされているかもわからぬと見える」
「孫呉で忌避されていた于禁殿付きの女官の役目を率先して引き受けた方です。恐れながら、然るべき褒美をお与えになってもよろしいかと」
「それで妹ひとりくれてやれと? 癒えきらぬ傷だらけの体にさせるような国に渡せと?」
「・・・」




 ふざけた話だ。
止められなければ妻は確実に陸遜を抹殺していたし、その場に自分がいたら止められようと斬って捨てていた。
負うはずのなかった怪我を押しつけ、更に無理をさせる。
とやらを追ってここまで来なければ、何も知らないままだった。
知らないところで知らない間にボロボロになり、そして必要がなくなれば捨てられるだけ。
これから先も、彼女は敵国で独り傷を重ねて生きていくのか。
許せるはずがない。
何もかもを受け入れた末に敵へ降った于禁とは違うのだ。
そも、本当に夷陵で受けた傷なのかその話すら信用していない。
度重なる拷問の末、満足な治療も施されないまま不完全に癒えかけたものかもしれない。
身勝手にも夫と名乗る男に折檻を加えられているのかもしれない。
心配して当然だ。兄で、妹なのだ。




「于禁のことは知っていたのか」
「将としての存在ならば、無論」
「意図を訊いている」



 少し見ない間に于禁は随分と老けた。
あの様子では長くはないだろう。
とどめは今日、父が眠るこの場で刺した。
壁画は事実を伝えたに過ぎない。
崩れ落ち泣き咽ぶ老将にしてやれることは何もない。
何もかも知っていても、その上でできることは何もない。
何もないのが正しい。
于禁自身も何もしなかった。
それが彼の正義なのだ、意思は尊重する。



「陛下は」
「私はお前の何だ」
「・・・兄上は、ご存じだったのですね」
「聞かせよ」
「関羽将軍は糧秣の不足を補うため、当時は未だ同盟の関係にあった孫権軍の蔵を断りなく開きました。けれども、歴戦の将である関羽殿が糧食の管理を疎かにするとは考えにくい・・・。何か、予期せぬ事由により急場を凌ぐ必要が出てきたのでしょう」
「誰かの入れ知恵か?」
「・・・于禁殿は紛れもなく曹魏の将だったとお伝えいたします」
「その聡さ、いつか孫呉で疎まれるぞ。その時お前を守る者はどこにいる? 陸遜か? お前を拐した男か?」
「曹魏に留まり安住とも限りますまい・・・」



 人をもう、何人も狂わせている。
狂った人がどれだけいようと人を分けることはできない。
与えたところで、守ることはもはやできないだろう。
悲しませることもあるだろう。
滞在中に唯一血相を変えたのは、かの男の名を耳にした時だけだった。
それきり話すのをやめたほどに怯えた表情を浮かべていた。
故郷なのに、故郷のぬくもりに浸れることができなくなっていた。
初めに手放してしまったのはこちらだ。
彼女の居場所はここではない。
だから、友を守るため覚悟を持って帰還した。
曹丕は于禁に言葉をかけている妹を眺めた。
何かを手渡されている。
鳳凰。はっと思い出し、手渡されようとしていたそれをもぎ取る。
戸惑った表情を浮かべた于禁に、それは私の務めだと言い放つ。
次に覚悟するのはこちらだ。
再び手放す愚挙を犯す息子を、父は何と言うだろう。
でかしたと、そう言ってくれるのであれば満足だ。
根底の思いは同じはずだ。叶え方が違うだけ。
曹丕はもぎ取られしわくちゃになった伝説上の鳥を見下ろし、口元を緩めた。







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