氷天楼にご案内 4
また侍女が変わるらしい。
これで何度目の交替か、確か4人目だったと思う。
取り立てて難しいことを頼んではいないし、そもそも話しかけることすら二度三度だった。
もちろん無体を強いるようなこともしていなければ、叱責などもっての外だ。
自らの置かれた境遇については誰よりも理解している。
必要とされていて勧誘を受けたことには感謝こそすれ、丁重に断った。
たとえ我が身がどうなろうと、自らがどんな選択をしていようと、仕える国はただひとつだった。
それを理解してくれた上で故国へ帰してくれるよう差配してくれる孫呉の国主は、器の大きな男だと思う。
彼の下で働く人々に限って言えば、決して万人がそうではないようだが。
「今日からこちらでお世話になることになりました、と申します。以後お見知りおきを」
ほんの少し早口でそう自己紹介した新しい女官は、まるでここに昼夜居着くのかと思ってしまうような大荷物を抱えて現れた。
南方生まれの人々の間ではよく見かけるはっきりとした顔立ちに少々気の強そうな瞳には、どうせまた気位の高いどこぞの豪族の娘かとげんなりしてしまう。
孫呉の女性は、我が強い者が多い。
何が彼女たちをそうまで駆り立てているのかわからないが、少々好戦的でもある。
今度の女官もきっと似たような類なのだろう、果たして何日務まるのだろうか。
2日か3日、ひょっとしたら翌日にはもう出仕してこないかもしれない。
この于文則の傍に仕えることは、それほどに嫌なことなのだろうか。
だったらもう放っておいてくれ。
そうとはもちろん言えぬまま、于禁はの自己紹介を聞いていた。
「于禁殿はとても厳格で、軍規に明るい方だと伺っています。生憎と私は武人ではありませんので、お手柔らかにお願いしたいのですけれども」
「うむ・・・厳粛に受け止めよう。私のことを構う必要はないが、静粛な環境を所望する」
「かしこまりました。では、私はあちらの部屋に控えておりますので御用がありましたらこちらを鳴らして下さい」
ちりんと鳴る小ぶりの鈴を手渡され、かつてこの国にいた猛将を思い出す。
蜀軍と夷陵で戦った後亡くなったと聞いていたが、彼の面影は今も孫呉に在り続けているらしい。
それにしても、という女性はなかなかどうして賢いのかもしれない。
必要がなければとことんまでに関わり合いになるつもりはないらしい。
そちらの方がいい。
四六時中親しくもない人間と空間を同じくするのは息が詰まる。
客将として留め置かれている間は、帰国した時のことを考えていたい。
帰るつもりはなかったのに。帰れるとは考えもしていなかったのに。
あの日曹操に腹案を伝え樊城で恥を晒した日で、すべてが終わったと覚悟していたのに。
「では私はこれで」
「待たれよ、殿」
「はい?」
「その大荷物、運ぶにはいささか難儀であろう。私に任せるが良い」
「えっ、でも将軍に任せるなんて、それは女官風情が頼んでも良かったのかしら・・・」
「私がやると言っているのだ、大人しく受け止めよ。それから私はもはや将軍ではない、改めよ」
「まあ・・・! ではよろしくお願いします、于禁殿。良かった、実はそれ結構重くて困っていたのです。私、内職で「殿、口を慎まれよ。今は任務中であろう」
「そうでしたね、失礼しました」
本気で内職をするつもりだったのだろう。
籠にどっさりと詰まれた色とりどりの布の束を控え室に運び込む。
勤務中に他の任務を独断で始めるのは軍規に明確に違反するのだが、武人ではないに軍規を問うのは筋違いだ。
それに、初日にとやかく言ってまた担当が変わるのも面倒だ。
これ以上自己紹介を聞きたくもない。
それにしてもこの布、下々の者が使うにしては随分と質が良く見えるがやはり彼女は手際のいい良家の子女なのだろうか。
于禁の疑念に気付いたのか、は違いますよと口を開いた。
「それは友人からの依頼です。私はしがない女官なので・・・、こう見えても今着ているのが一番いい生地なんですよ」
「・・・孫呉は豪族が多く拠る地と聞いたが」
「前任の方も、そのまた前任の方も名が知れたお家柄のお嬢様だったようですね。私の出身は会稽で、父は元の会稽太守王朗様にお仕えしていました。
まあ、昔の話ですから今は家族一同建業でつましく暮らしていますけど」
綺麗な生地ですよね、友人は鳳凰の柄が好きなのですけど私の技術ではそもそも見たこともないので再現できなくて。
そう布地を広げながら快活に笑うの衣は、光沢も刺繍も何ひとつない地味なものだ。
前任者たちとはまるで違う。
内職道具を広げ作業に取り掛かり始めたの慣れた手捌きを見つめる。
家族を支えてきた苦労人の手をしている。
今度の女官は当たりなのかもしれない。
于禁は手渡された鈴を懐に仕舞うと、静かに控え室を後にした。
鳳凰の刺繍が施されたものを持っていたかと、手持ちの品を反芻しながら。
最近の陸遜様は荒れておられます、私が癒してさしあげなくては。
そう面と向かって言われたのは、今日で何人目だろうか。
仕事は遊びでなければ、社交場でも盛り場でもないのだ。
いい歳をしたいい家柄の娘が揃いも揃って嘆かわしい。
求めているのは仕事を全うにこなせる人材であって、快楽ではない。
そんなものは間に合っている。
いや、実のところは間に合ってはいないが他を当たるつもりはない。
陸遜はようやく求職者全員を追い出し、はあと盛大にため息をついた。
と孫権のおかげで仕事が増えた。
埋めた穴は補充させるから私に任せてくれではない。
全員土に埋めてやろうかと思えてしまうほど、頭の中に花が咲いた連中しか来ない。
利殖に励む人々が多いから気を付けろとは常々忠告されていたが、まさかここまで狙われているとは予想以上だった。
何が仕込まれているのかわからなくて、出された茶も飲む気になれない。
はさぞや辛かったのではないだろうか。
同僚たちから大なり小なり手厳しい目に遭っていたのではないだろうか。
女の嫉妬ほど恐ろしいものはないと聞く。
もしも酷い仕打ちを受けていたのであれば逃げたくもなっていただろうし、それら背景を弁えずただ逃げる彼女を糾弾するだけだった自身には腹も立ってくる。
は何も持たないのだ。
持つことを拒絶し続けているのだ。
「苦戦しているみたいだな、陸遜」
「ええ、おかげさまで。殿はやはり私にこそ最も必要な方でした。于禁の元へ遣わす者など誰でも良かったというのに、よりにもよってなぜ殿を・・・」
「で4人目だと聞いたけどな。侍女として仕えるのは俺の時以来だから、練師殿と猛特訓したらしい」
「付け焼刃の特訓でしおらしくなるとは思えませんが・・・」
「そうだと俺も思う。でも、今日少し様子を覗いてきたら案外上手くやれてたぞ、あの2人」
「ほう?」
「、あの厳格な魏将に自分の荷物運ばせてた」
「まったくあの人は・・・! ああ心配です、もし何かあれば・・・」
「何かあったら困るからで即決だったのかもしれないけどな。知ってるか陸遜、于禁付きの女官は許昌まで供をするんだと。がそれまで保つか見ものだな!」
笑いごとではない。
強引に不祥事を誘発させてでも、を建業に留めておかなければ不安で食事もできない。
人質の駒として弱すぎるが許昌に行って無事に帰れる保証は微塵もない。
むしろ、前職を知られてしまえばあらゆる手段を用いて孫呉の内情を暴こうとされかねない。
仕事なんてやっていられるか。
いざとなれば孫権に猛陳情だ、都督ならばそれができる。
陸遜は無地の木簡を引っ張り出すと、が首を刎ねられない程度の陰謀を練り始めた。
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