氷天楼にご案内 5
定刻ぴったりで于禁の元へ顔を出し、朝の挨拶をする。
彼はそれを評議と堅苦しく呼ぶが、中身はただの挨拶だ。
本来の評議とやらでは一日の予定や伝達事項の確認なども行うらしいが、降将で客将で任務などほぼ与えられない彼の一日は鍛練と読書で終わる。
時折孫権に遠乗りや虎狩りに誘われることもあるが、生真面目な于禁だ。
失礼にならないよう丁重に断りを入れている。
慎重な人だなと思う。
誘われ赴き、帰るに帰れなくなり挙句一晩中宴で夜を明かし、翌日目覚めればなぜだか血みどろの同僚が転がっているという惨劇を未然に回避しているのだ。
誰にでもできる危険回避能力ではない。
これが歴戦の名将という器なのだろう。
は今日も今日とて朝から気難しげな表情を浮かべている于禁に茶器を差し出しながら、今日の予定を伝えた。
「今日はお天気もいいので、庭の草むしりでもしようと考えています。ですので、ご用がありましてもすぐには気付けないかもしれないとご承知おき下さい」
「うむ。有事があれば私からそちらに出向こう」
「まあ、そこまでしていただかずとも良いのに」
「殿の任務を妨げることは厳に慎まねばならぬ。殿こそ、何か入り用があれば疾く伝えよ」
「これと言ってすぐに思いつくことはないのですけど・・・。そうですね、何かありましたらご相談させて下さい」
無骨で愛想も悪く厳格だが、悪い人ではない。
さりげなく気は回してくれるし、内職を主とした仕事の邪魔をしてくることもないので作業も捗る。
出された食事も無言だが残さずきちんと食べるし、市場を巡回しても事件や問題を起こさない。
都の武将とはかくも洗練されているのかと、決して誰かと比べるつもりではないが感嘆してしまう。
孫呉の将などどうだ、ちょっと甘味処へ肉まんを買いに行っただけでごろつきどもの喧嘩に巻き込まれ好い人を見つけ勝手に失恋している。
于禁はもちろん無理を強いることもしない。
それは相手がだからじゃないのかという最初の上司兼友人の放言には、なるほどと納得してしまったが。
元上司の陸遜はともかく、このところ朱然はよく迎えに来る。
彼なりに心配してくれているのかもしれない。
誰かの屋敷に仕えることが久々だったので、かつてのように粗相をしていないのか気にもなるのだろう。
あれらの日々のおかげで随分と逞しく成長できたと自負している。
はしつこく生い茂る草を引き抜きながら、額から浮かび上がる汗を拭った。
焦げ臭さを伴わない純粋な暑さが心地良い。
今日のおやつは冷茶を添えると于禁も喜んでくれるかもしれない。
は早々に今日の休息時間の計画を立てると、庭園を抜け出し食堂へと向かった。
我ながら、かなりいい策を練ったと思う。
あの程度の警備であれば、真相に辿り着く者は皆無のはずだ。
愛する人を苦境に追い込むのはいささか心が痛んだが、綺麗事ばかり並べ立て為せる平和など存在しない。
目的の遂行のためならば多少の犠牲には目を瞑るべきなのだ。
「・・・遜、陸遜!」
「ああ・・・、どうされましたか朱然殿」
「どうもこうも、いったいどうしたらそんな顔になるんだ? 寝ていないのか・・・?」
「ええ、仕事が溜まっていて・・・。嫌がらせでしょうか、殿が去ってからというもの書簡が見つけられなくて」
「書簡の並び替えをしたとは言っていたが」
「随分とあの方について詳しいのですね、朱然殿は。妬けますね、焼きますか?」
寝不足による苛つきと嫉妬からくる殺気を含んだ目に見据えられ、思わずたじろぐ。
も面倒な男に見初められてしまったものだ。
何事も真面目で熱心で孫権からの信頼も厚い有能な将だが、有事と平時の時の振り幅が違いすぎる。
いや、もしかして今は彼にとっては有事なのだろうか。
愛するを曹魏の降将に奪われてしまった陸遜だ。
彼女を取り戻すためならば何だってやりかねない。
そうか、だからこんなに下衆な顔を・・・。
困った事態になる前に止めておくのが賢明かもしれない。
何かが起こってからでは遅い。
戦場よりも凄惨な表情を浮かべている陸遜が何をしでかすのか、まったく見当がつかない。
「陸遜、お前はいったい何をしようとしている? 言わずともわかっているだろうが、今回のの件は孫権様が決めたことだ。も自ら望んだと聞いている。俺たちの出る幕はない」
「わかっています、そのくらい。私も一度は渋々ですが承知した話ですから。于禁との関係も良好だと伺っています。けれども」
すうを息を吐き、怪訝な表情の朱然を見つめる。
何ひとつわかっていないが、ただ友のことを案じている優しい目をしている。
すべてを知ってしまったら熱く激しく罵倒するであろう、曲がりくねったことが大嫌いな心を持っている。
きっと、心優しく面白おかしい上司だったのだろう。
そうでなければあの手厳しいが義封殿など親しい名で呼びはしない。
「殿にはささやかですが、失態を犯してもらわなければなりません」
「おいおい、はそうおいそれと下手を打つような女官じゃ・・・」
そう断言しかけ、とうの昔に置いてきた苦々しい記憶を呼び起こす。
私じゃないの、違うの、でもここにはもういられない。
かつて敗残の将の娘として人質同然に屋敷に連れて来られ健気に働いていた少女が、最後に残した言葉だ。
嫌な予感がする。胸騒ぎしかしない。
あの時は半信半疑だったが、今わかった。
好意を突き通すための悪意は存在するのだと。
「・・・何をした、陸遜」
「さて、何でしょう」
答えを言う前に朱然が執務室を飛び出していく。
大したことはしていないつもりだが、それだけのことを案じているのだろう。
意地を張って彼女の元を頑なに訪れようとしないこちらに代わり、何くれとなく様子を見に行っては状況を逐一報告してくれている。
それら情報が策のきっかけになったとは、朱然は思いもしなかっただろう。
さて、は無事于禁付きの女官を辞めてくれるだろうか。
ただでは挫けないだから、策は二重にも三重にも用意しておく必要がありそうだ。
陸遜は奪還戦と名付けた孤独な戦いの勝利を信じ、彼女が復帰した際に勧める席をしつらえ始めた。
気分転換と菓子の補充のため食堂にいた間に、仕事場が燃えていた。
火の不始末から起きた小火で済んだらしく消火隊にはちくちくと苦情を言われ、素直に頭を下げた。
于禁の屋敷にある炊事場では、今日は火を使っていない。
于禁が1人で茶でも沸かそうとしていたのだろうか。
それならそれできちんと世話をしなかったこちらの責任なので頭は下げて良かったが、于禁がその程度のヘマをすることはないと思う。
ただひとつの戦い以外においては、あらゆる危機を乗り越えてきた将軍だ。
たかだか炊事場で小火騒ぎなど起こすはずがない。
は燻り続けている疑念を抱いたまま、眉間に皺を寄せている于禁に相対していた。
見ただけでわかる、大層ご立腹だ。
「身の回りの世話を仰せつかっておきながらこの不始末、申し訳ございません」
「大事に至らずに済んだものの、不用心が過ぎる」
「返す言葉もございません。于禁殿がお気付きに?」
「妙な臭いがすると思い訪ねたところ、鍋が火にかかったままであった。・・・時に、殿は煮炊きは?」
「できるかどうかという問いでしたら、自分の口に入れる程度には致しますがここでは何も。于禁殿のお口に入るものは私が食堂からくすね・・・いえ、用意してもらっていますし」
「私も、今日の殿を見ていたが火を扱っているようには見受けられなかった。日中は屋敷を離れていたようにも見える」
「ああ・・・、今日はひときわ暑いので冷茶を作ろうと食堂にいたので。どなたか不審な人物は?」
「いや・・・誰も」
顔を見合わせ、互いに首を捻る。
どちらも火の不始末に心当たりはない。
来訪者もいなかったという。
書庫は間諜が火をつけたと聞いたが、今回も似たような件なのだろうか。
しかし、何の取り柄もないしがない女官と使いみちのない客将しかいないこの屋敷を消す意味がわからない。
妙だ。孫権の耳にも既に入っているしこの後お叱りも受けることになるだろうが、不審点があると伝えておくべきかもしれない。
保身のためではない。
些細な問題が大きな事件となることは、おそらくこの国の主はわかっているはずだ。
このままでは人死にが絡んでこないとも限らない。
曹魏に帰ることになっている于禁が負傷するようなことになれば、どんな報復を受けるかわかったものではない。
「私は孫権様の元へ行ってきます。今回の不始末のお詫びをしなければ」
「私も同行しよう。殿の不手際は、上官たる私の責でもある」
「いいえ、于禁殿はどうかこのまま。大丈夫です、私、ひとつを除いて過去すべての職場が燃やされているので火計案件は慣れているんです」
状況から考えて、かつての朱家の問題とは違うはずだ。
あの時は朱然という名門の御曹司の側仕えとなった自分へ嫉妬や羨望といった歪みきった悪意をぶつけられたために起きた事件だったので、今回とはまるで合わない。
そういった目に遭わないようにするために、于禁付きの女官という閑職をあえて選んだのだ。
今更彼の毅然とした態度に魅力を感じてしまった女が現れても困る。
仕事は遊びではないのだ。
私情を挟まず真面目に仕えてこそ信も厚くなり情も深くなると、なぜ自称百戦錬磨の恋愛上手たちは理解しないのだ。
小火の原因は不明だが、起こってしまったことは事実であり厳粛に受け止めなければならない。
再発防止策も次の評議とやらで話し合うべきだ。
火の用心ならば、念のため朱然や気に喰わないが陸遜の意見も聞いておいた方が良さそうだ。
身内に火計の大家が多いという物騒な交友関係が初めて役に立つ時が来た。
「殿」
「はい」
「身辺にはくれぐれも用心せよ。殿にはどうも、隙が多いように見受けられる」
「そりゃあ私は武人ではありませんもの。それとも、せっかくの機会ですし于禁殿が私に護身術でも教えていただけます?」
「それはできかねる相談だ」
「お互いのためにもそれがいいと思います。お気遣いありがとうございます、気を付けておきます」
今はまず、孫権に何をどう話すべきか考えなければ。
ひょっとすると、これ見よがしに陸遜が糾弾してくるかもしれない。
充分にあり得る話だ。あの軍師は終始一貫してこちらの敵だ。
交渉決裂で最悪の別れ方をしてしまった以上、同じ職場には戻れない。
戻るつもりはさらさらないが、今後の任官活動の妨げになる危険については考えもしていなかった。
道は自分で切り開くしかない。
味方はいても、当事者はひとりなのだ。
は服についた煤の汚れを手で払うと、孫権が待つ宮殿へと歩き始めた。
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