氷天楼にご案内 6
このたびは申し訳ございませんでしたと、気難しい表情を浮かべている孫権の前で首を垂れる。
書庫の時もお前だったなと尋ねられ、その当時から存在を認識されていたという事実に心の中で驚く。
問題の多い女官と思われてしまったのならば心外だ。
書庫も今日もこちらの不手際ではないのだ。
管理不行届と責められては返す言葉はたちまちなくなるが、意図してやったのではないとは断言できる。
もちろん小火騒ぎを起こしたことは反省している。
処分が下されるのならば甘んじて受けよう。
は顔を伏せたまま孫権の言葉を待った。
できればクビにはなりたくない。
次の就職先の当てがまだ定まっていないのだ、せめて見込みができるまでの猶予が欲しい。
「慣れない仕事で戸惑うことも多いだろうが、もう少しの辛抱だ。耐えてくれ」
「はい・・・、え?」
「先程、于禁からも使いが来た。互いに心当たりのない不在中での失火ゆえ、お前をあまり責めてくれるなとの言伝だ。随分と目をかけてもらっているようだな」
「恐れ多いお言葉です」
「あの男の側仕えが務まるのは、お前を置いて他にはいない。これからもよろしく頼む」
「え・・・あの、私はてっきりお叱りのお言葉とか何らかの処罰をいただくのでは、と・・・」
「ははは、お前もすっかり于禁の厳格さに当てられたようだな! 確かに、今すぐお前を外すべきだという意見もあった。
だが、では後任は誰にするかという話になるからな。私はお前の才を買っている。ゆえに、ただ一度のしかも己に落ち度のない小火程度で職を逐うのはあまりにも惜しい」
于禁がを認めた理由は孫権にはわからない。
真意を訊こうと呼び出したが、馴れ合うことを良しとしない彼は誘いを丁重に断ってきた。
陸遜の書記官を務めたほどなのだからそれなりに優秀ではあるのだろうが、特別美人なわけではない。
気が利くといった話を聞いたこともない。
練師は彼女のことを親しみやすいと言った。
朱然は友人だと言い切っていた。
毒気の少ない好かれやすい娘なのだろう、きっと。
そういった特異な人物も国の主として守っていかなければならない。
才を活用していかなければ国は存続しない。
「よ、時にこのところ陸遜とは?」
「いえ、任を解かれた後は一度も。ですが、不審火の件もありましたので火計に長けた方として見解をお聞かせいただくつもりではあります」
「そうか・・・。・・・その、あまり刺激してやるなよ」
「はあ・・・」
煮え切らない孫権の言葉に訝りながら、宮殿を後にする。
話が終わるのをずっと待っていたらしい柱にもたれかかっていた朱然が、目が合うなり駆け寄ってくる。
怪我はしていないのか、処分はと矢継ぎ早に尋ねてくる朱然をはいはいと軽くあしらいながら、不本意にも通い慣れてしまった陸遜の執務室への道を進む。
小火騒ぎは既に朱然の耳にも入っていたらしい。
結構な延焼だと思う。
これは、わざわざこちらから出向かずとも陸遜が于禁邸に野次馬気分で押しかけていそうだ。
陸遜と于禁は絶対に合わない。
刃傷沙汰はさすがに起こさないと思うが、あれやこれやと軍師らしくもなく短絡的に勘違いして挑発くらいはしていそうだ。
非常に良くない。
良くないが一度切り刻んだ縁だ、案外とっくに冷め切っているかもしれない。
「私が呼ばれた理由、義封殿はご存知だったの?」
「于禁殿の館で小火騒ぎがあったのは有名な話だ。まさか陸遜がそこまで激しいことをするとは俺も考えていなかった・・・。すまない、苦しい思いをまたさせた」
「何言ってるんです、今日は義封殿は無関係なのに。でも嫌ですね、不審火なんて。また間者でも入り込んだのかしら」
「違うんだ、これは陸遜が」
「そう、違うのなら良かった。・・・ふう、仕方がないけど今回ばかりはあの人と知り合いで良かったわ。火計への対応策を教えてもらわないと」
次は不審者の侵入なんて許さないわと拳をぎゅっと握りおどけた調子で話すの横顔を、朱然ははらはらした思いで見つめた。
不審者とは間違いなく陸遜のことだ。
あの時彼が口走っていた『ささやかな失態』とやらは小火に違いない。
陸遜は不審者ではない。
誰も彼のことは不審者とは言えない。
それに悔しいが、彼の策士としての腕前は本物だ。
警備などなきに等しい于禁邸に忍び込み火をかけるなど児戯も同然だ。
もちろんは何も知らない。
気付くわけがない、彼女はただの女官なのだから。
そして、ただの女官にすぎないはずのは、おそらく陸遜がどんな手を打とうと于禁が手放すことはない。
陸遜の作戦は、成功はするが勝負には勝てないのだ。
「あら、あの人いないの? さぼりかしら」
懐かしいが戻りたいとは思わない元職場の戸を開けるが、がらんとしていて誰もいない。
去る前よりもぐちゃぐちゃに乱れた書簡の山を前に今すぐ片付けたい衝動に駆られるが、出すぎた真似と越権行為はしたくないので抑え込む。
まさかあの軍師、本当に于禁邸へ殴り込みに行ったのでは。
大変だ、一刻も早く館へ戻らなければ于禁に過去最高に迷惑をかけてしまう。
「どうしましょう義封殿、あの人きっと于禁殿のところよ」
「を取り返しに行ったとか?」
「誰が何の権限があってそんなこと言うの。もう、どうして陸遜殿は私の邪魔ばっかり!」
それはひとえにを案じているがゆえなのだが、彼女がそれに気付くことはないのだろう。
自業自得とはいえ不憫な男だ、やることなすことすべてが裏目に出ている。
についてはこちらも少しは詳しいつもりだから、もっと早く相談してくれれば良かったのに。
友として、の平穏はいつでも祈っている。
彼女を悲しませてしまった負い目もあるから尚更、今度こそ彼女が望むようにさせてやりたいと考えている。
陸遜は決して嫌な奴ではない、品行方正で温厚な好青年だ。
だから、明らかに家格から何からすべてが違う陸遜に懸想されていることを憂いていた当時のの背中を迷うことなく押した。
あいつはとてもいい奴だから、もしかしたら時々鬱陶しいと思うことがあるかもしれないが守ってくれると太鼓判を押した。
嘘をついたと後悔したくない。これ以上悲しむを見たくない。
大切な友人なのだ。
「」
「何ですか義封殿」
「陸遜のこと嫌いになったか・・・? ひょっとして、陸遜のところでも怪文書とか刃物とか小火とか・・・」
「ないですよ、そんな物騒なもの。・・・そのあたりはあの人なりに手を打っていたんでしょうね。甘寧殿や凌統殿ご夫妻と仲良くさせてもらって人脈広げたのも良かったかもしれないけど」
「于禁殿の任務が終わったら陸遜の元に帰ってやってくれないか?」
「今更戻れないわ、あんな別れ方して。孫呉の大都督に背いてるのよ、下手したら一家全員の首が飛ぶかもしれないっていうのに私ったらやっぱりあの人が言うとおり馬鹿なのかもしれない」
孫呉に残れなくなったらどうしよう。
父も薄給の身で、今も相変わらず内職なくして家計は成り立たない。
公私混同しない男だと信じているが、陸遜に逆らった報復人事として交州にでも父を追いやられてみろ、一家が終わる。
陸遜との仲を家族に話したことはないが、話せばきっと大いに喜ぶだろう。
喜ばれたところでどうもしないのだが。
「私が天涯孤独の身だったら、このまま于禁殿に最後までくっついて許昌あたりで蒸発してるかもしれないわね」
「!?」
「いやね、冗談に決まってるじゃない。さ、早くあの人探しに行かないと」
少しきつすぎる冗談だったかもしれない、朱然の顔色が一気に悪くなってしまった。
誰もいない往来での話だから、朱然以外は誰も聞いていないはずだ。
は間抜けな表情を晒して固まったままの朱然の袖を引っ張ると、于禁邸へ歩き始めた。
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