縁儚し恋せよ姫君 10
策が成ればと簡単に言ったが、策を実行に移すまでにかなり苦戦を強いられそうだ。
は前方に立ち塞がり後方に回り込まれた蜀軍と剣を交えながら、同じように戦う朱然を探していた。
敵陣を突破できても、追いかけながら向かったのでは意味がない。
しかし手勢が少ない朱然隊には、すべてを撃破できるだけの余裕がない。
目的地に辿り着かなければ何も始まらない。
何も始まらなければ、孫権軍は蜀軍の大軍に飲み込まれ敗北する。
負けてはならない。
負けるきっかけを作ってはならない。
は同時に襲いかかってきた敵兵2人を一気に倒すと、四方へ小刀を投げ放った。
「朱然殿」
「殿! ・・・驚きました、殿がよもやこれほどお強いとは」
「戦わねば戦場では生きられぬゆえ。それよりも、これ以上の大立ち回りは保ちませぬ」
「・・・策を読まれていたということでしょうか」
「蜀は大軍で押し寄せています。狭道にも兵を配置するだけの余裕があったというだけでございましょう」
「合流して下さる手筈となっていた甘寧殿の姿も見えませんな」
「いらっしゃらない方を当てにしても詮なきこと。戦場は不測の事態も起こりましょう」
相手がこちらの意図せぬ行動を取るのであれば、こちらにも考えがある。
できれば使いたくなかった派手な行動だが、こうすることで少なくとも敵の注意を引きつけ火計で一網打尽にすることはできる。
は前方に向かって走り始めるや否や、懐から拳ほどの大きさの玉を取り出しばら撒いた。
「わたくしとて、ただ安穏と暮らしていたわけではございません」
の周囲で小規模な爆発が連鎖的に起こり、白い煙が森中に充満する。
視界が利かなくなることは双方にとって不利となりかねないが、地形図を読み込み熟知した朱然ならば煙の森もぬけられるはずだ。
は突然の視界消失に慌てふためく蜀軍を振り切ると、一気に森を駆け抜けた。
「朱然殿、ご無事ですか」
「はい! も、申し訳ありません、殿を守るはずが守られてしまうとは・・・」
「守ったつもりはございません。朱然殿、今です」
「承知! 孫堅様の総べる地に踏み入る蜀の輩どもよ、孫呉の猛き炎をとくと見よ!」
朱然隊が放った冷が木々に突き刺さり、蛇のように並んだ蜀軍の陣に燃え移る。
密集して陣を並べた所に火が放たれるとたちどころに燃え広がることは先の曹操軍との戦いで知っただろうに、かつての赤壁の父の軍と同じ陣形を取った劉備の気が知れない。
百戦錬磨でありながら敗北ばかりだった劉備の大軍を大軍として御しきれていない悪さが出たことが、孫権軍にとってはまたとない好機となった。
は赤く染まる天を仰ぎ、策が成功したと確信した。
「策は成りました。今こそ劉備を追い詰める時ぞ!」
「朱然殿」
「殿は誠に奥が深い方だ。私はますます殿に魅入られてしまいました」
「朱然殿は素晴らしい方です。本来ならばわたくしの力など借りずとも立派な1人で戦えるお方。策が成った今、わたくしはもう必要ありますまい」
「は、左様でありましたな! お引き下さい殿、これより先は我ら武人の役目、一気に蜀軍を叩きのめします」
「ご武運をお祈りしております、では」
何の疑いもなく崩壊した劉備軍へと兵を率い駆け去っていく朱然を見送り、はほうと小さく息を吐いた。
朱然は確かに素直ないい将だが、乱世を生き抜くための毒が足りない。
酸いも甘いも知り尽くした父や夏侯惇、あるいは陸遜のような策士でないからかもしれないが、何を考えているのかわからない素性の知れない女のことは少しでもいいから警戒すべきだった。
あなたが魅了された女は、誰の言うことも聞かない稀代の愚か者でございます。
はそうぼそりと呟くと、尚香を探すべく再び馬上の人となった。
いつの間にあんな技を身につけていたのだろうと思う。
敵を斬るだけではなく、火を放つだけでもなく、煙を使い敵の目を欺くこともできるなど今の今まで知らなかった。
俺が知らないとこで自分を守るためにいろいろ特訓してたんだな、。
凌統は遠目からも見えた白い煙を思い出しながら、火計により戦意喪失し撤退を始めた蜀軍を追っていた。
火計隊援護の任を任されていた甘寧と会った時は、なんで行かないんだよと怒りもした。
どいつもこいつも寄ってたかってを死地に追い立ててと憤りもした。
しかし、本当の意味でを死へ誘っているのは他でもない自身だった。
は戦えばそこそこに戦えるしきついことをさらりと口にする度胸の良さもあるが、本当はとても繊細で儚い。
強く見えているだけで、中身は他の娘たちとそう変わらない脆さを持っている。
たった1人の怒りで我を忘れた男の暴言を真に受けてしまうほどに純粋な子だ。
蜀軍の掃討に励む朱然にの行方を尋ねると後退したと返ってきたが、死のうとしているはそんなことをするはずがない。
死を覚悟し2,3人は道連れにしようとすらした苛烈な一面を持つならば、いっそ敵本陣へ向かっているとも考えられる。
曹操の娘が劉備の首を孫権軍の戦いで取ろうとするのか。
しかしそれでは、何かを成す前に倒されてしまう。
意外にしたたかなは、何もなしに行動を起こさない。
がこの戦いに従軍した本当の理由は何だったのだろうか。
陸遜に強いられたからではなく、自身が行きたいと願ったから彼女は今ここにいるはずだ。
彼女はなぜここにいて、そして敵陣へ走るのだろうか。
死ぬ気で立ち向かってくる兵を両節棍で振り払った凌統は、肩当を掠めた弓矢にああと声を上げた。
「、あんたまさかほんとに・・・」
敵国へ連れ去られ、祖国と戦うことになった合肥の。
政略結婚で同盟国に嫁ぎ、祖国と戦うことになった尚香。
荊州関羽軍との関係が悪化した頃から事あるごとに尚香の身を案じていたが、夷陵の地において彼女を心配しないわけがない。
祖国と戦うことの辛さはが誰よりもよくわかっている。
のように宮殿の奥で育てられたのではなく、外で溌剌と周囲と交流し育ってきた尚香がかつての仲間たちと戦うのは相当に辛いはずだ。
陸遜が言っていたことは本当で、そしてはそれを実行に移そうとしているのか。
の恐ろしい決断を察知した凌統は、恐怖と緊張で顔から血の気が引くのを感じた。
「、それは違う・・・。誰も得はしないしみんな損する。特に俺が大損だっての」
なんと計算高く、そして人心の計算が下手な娘なのだろう。
駄目だ、の優しさはよくわかったけどそれをやられると俺は困る、死んでもらったらもっと困る。
頼むからこれ以上、俺を振り回す悪女ごっこはやめてくれ。
を追うべく蜀軍本陣へと繋がる細道へ足を踏み出そうとした凌統は、待って下さいと背後から声をかけられ嫌だと叫んだ。
分岐に戻る