縁儚し恋せよ姫君     9







 陸遜や朱然と地形図を囲み何度も作戦の確認をし、一度しか訪れないであろう火計を最大の威力で発動させるため陸家の庭で火計の鍛錬をする。
武芸の鍛錬ももちろん怠ってはならないので、朝は早くから剣を振るっている。
細身の剣で手数を稼いだ方がいいよと助言してくれた凌統とは、最近はほとんど話していない。
彼に嫌われ愛想を尽かされることになった心当たりはすぐに思いつくし、それについて改善しようと今は考えていないから何もしていない。
どうせ、何を言ったところでそれは凌統が望む言葉ではないのだ。
昔から男を喜ばせる言葉を言えた験しがない。
媚びるのが嫌いとかではなくて、単純に口下手なのだと思う。
元々あまり喋る方ではなかったし、周りには同年代の人々があまりいなかった。
女官たちとは立場が違うし、異母姉たちとも話が合わない。
唯一まともに口を利いてくれたと言っても過言ではない夏侯覇とは、よく話していたはずなのだが何を話していたのかあまり思い出せない。
凌統とは出会ってから今までどんなことを話してきたのだろうか。
凌統はどんな女性が好きなのだろうか。
こちらに住む女性たちのように華やかで明るくて、感情表現のしっかりとした女性を好ましいと思っているのだろうか。
無理だ、彼女たちのようにはなれない。
満面の笑みとはいったいどうやって浮かべればいいのだ。
どこの肉を動かせば他の若い娘たちのように綺麗に口角を上げることができるのかわからない。
は陸遜から借り受け読んでいた書物を仕舞うと、棚の隅の銅鏡を取り出し灯明の明かりの下で鏡に映る自身の顔を覗き込んだ。






「・・・ふ、ふふ・・・?」




 鏡に映った引きつり笑顔に、自身の顔でありながら気味が悪いと感じげんなりする。
世辞どころか笑顔すらろくに浮かべられない女だとは思っていなかった。
もしかしなくても、いつもしかめ面かあるいは冷めた笑いを浮かべていたのだろうか。
無理だ、女としての自信をなくした。
は銅鏡を床に置き捨てると、笑顔がいらない戦場のことのみを考えるべく目を閉じた。








































 結局、今日は今日まで2人の仲が修復することはなかったらしい。
陸遜と甘寧は口どころか目も合わせようとしない凌統とを交互に見つめ、苦々しげな表情を浮かべていた。
2人とも大人げない。
互いの意見を主張し合うだけだから、双方の考えを聞くことができず衝突するのだ。
公主さんかわいそうだな。
朱然の隣で真剣な面持ちで武器の手入れをしているを眺めていた甘寧がぼそりと呟き、陸遜はまったくですと返し頷いた。





殿がいなければ策は成りません。それがわからぬ凌統殿ではないでしょうに」
「あんなこと言っちまった手前公主さんに顔向けしにくいってのはわかるけどよ、このままじゃ公主さんまずいぜ」
「まずい、とは?」
「公主さん、いつ死んでもいいって顔してる」
「・・・殿が今も生きているのは凌統殿が幸せでいるためです。その凌統殿が殿を拒絶したら、殿の居場所はなくなります」
「お前んとこがあるだろうが」
「いつまでも居候させるわけないじゃないですか。殿もそのつもりだったはずです。だから宮中の雑用から市場へと降りたのでしょう」




 はこの戦いで何をするつもりなのだろうか。
火計を成した後、大人しく後退するとは思えない。
何かを失うために敵陣へ切り込むのであれば、全力で彼女を止めなければならない。
は聡明な娘だが、時折とんでもない無茶をする。
尚香のことも気にかけていたし、戦場に尚香が出陣していた時はの行動はますます予想がつかなくなる。
が何をするのか一番わかっているのは凌統のはずだ。
凌統は、口では強がっているが大切な物を失うことにとてつもない恐れを抱いている。
もしもが凌統にとってまだ大切な存在でいるなら、凌統はそれが無意識下の行動だったとしてもを失わないように動くはずだ。
それが人を愛するということなのだと思う。
そうあってほしい、を一時の感情で捨てないでほしい。
陸遜は、まだ大切なものを持っている凌統が羨ましかった。





「・・・軍師さん、ちょっと」
「凌統殿」
「・・・火計、ちゃんと成功するんだろうね」
「させます、そのための布陣です」
「だったらいいけど」
殿が信用できませんか?」
「・・・一生懸命やってるってのはわかるけど」
「だったら信じて下さい。殿はやりますよ、命を本当に懸けているようですから」
「は・・・?」
「凌統殿に必要とされていない自分にはもう生きる意味がないとでも思ったのでしょう。恐ろしく哀れな人です、未だにあなたを信じ切れていないとは」





 そんな人のために命を懸けてそして死んでいくとは、本当に哀れな人です。
陸遜が淡々と口にした言葉に、凌統は慌ててがいた場所へと視線を移した。
出陣前にどうしてもっとちゃんと話せなかったんだ。
今じゃなきゃ言えないこと、言わなければならないことがあったってのに俺は何を意地張ってたんだ。
凌統は既に移動を開始した後だったのか、ついぞ見つけられなかった愛しい娘の名を弱々しく呼んだ。




































 結局、何も話さないまま逃げるように出てきてしまった。
顔を合わせても可愛い顔も気の利いたことも言える気がなかったから、黙って出陣した。
凌統とはもう終わったんだと思う。
あの時凌統は確かに、今の俺は幸せでないと言った。
生きるための唯一の条件を満たすことすらできなくなったこちらにはもう、生きる理由がない。
戦場に死にに行くのは本望ではないが、勝利して帰ったとしても居場所はない。
尚香は嫁いだ先で居場所を見つけることはできたのだろうか。
は劉備の元へ嫁いだきり音沙汰のない尚香を案じ、眉を潜めた。




殿、本当によろしいのですか?」
「よろしい、とは?」
「私はやはり心配です。殿のようなたおやかな女性が戦で武を奮う必要などないのではないかと」
「わたくしが出陣することは既に決まったこと。それに、かような所まで来て今更撤退などできましょうか」
「そうですが、でも! ・・・元はと言えば私が不甲斐ないばかりに殿の力を借りなければならなくなったこと。凌統殿がおられぬ間は、私が殿を全力で守ります」
「その必要はございません。朱然殿が此度の戦で守るべきはわたくしではなく、孫権様が治めるこの国でございましょう。わたくしのことは、策が成った後はお忘れ下さいませ」
「できません! 殿は迷惑だと思うかもしれませんが、私は殿を好いているのです。凌統殿と何があったのかはわかりません。ですが、そのように思い詰めた顔をなさらないで下さい」
「わたくしは元より、愛想の悪い顔しかできぬ女です」
「そのようなことはありません。殿は素晴らしい方です。私は、いえ、私だけではなく凌統殿も殿の・・・!!」





 朱然の言葉が鬨の声にかき消され、全身が怒号と剣戟が交わる音に包まれる。
戦が始まった。
は高台から戦況を見下ろすと、従えていた馬に跨った。




「わたくしたちの参りましょう」
「いささか早くはありませんか?」
「蜀軍が思いの外押しています。わたくしたちの行く手も阻まれかねません」
「なるほど、承知しました。全軍進軍開始! 目指すは森を抜けた先だ、皆遅れるな!」





 先頭を駆けだした主人の背後を走り、はちらと改めて周囲を見回した。
火計拠点の傍で甘寧が待ち受け足止めをしてくれるという手筈だが、蜀軍の猛攻を考えると甘寧の援護を大きく期待してはならない。
乱戦になれななるだけ策の発動までに時間がかかり、狙った効果が得られなくなりかねない。
絶対に失敗は許されない。
やるべきことをやるまで、尚香に会うまで、凌統の無事を確認するまで死ねない。
たとえ自身の存在が凌統の幸福に繋がらずとも、彼を幸せも不幸も感じることにない骸にはさせない。
は白馬の手綱を強く握り直すと、一刻も早く目的地へ向かうべく馬に鞭をくれた。







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