縁儚し恋せよ姫君 8
愛する人に愛され共にいる時間を過ごしている時ほど心安らぐ時間はないが、幸福と思うひとときがあるからこそそうでない時間が苦しい。
尚香は夫の元に次ぐ次ともたらされる蜀にとっての悲報に、生きた心地を失くしていた。
兄と劉備軍が荊州の領有問題について揉めていた折に政略結婚で劉備の元に嫁いだ身としては、姻戚となった後も未だにくすぶり続ける領有問題があることは承知している。
女一人が他国に嫁いだだけですんなりと解決するほど乱世は甘くない。
劉備は出会った時から夫婦となった今でも優しく暖かく接してくれる。
祖国との間で意見の衝突があっても、変わらず愛してくれる。
荊州関羽軍が壊滅し義兄弟関羽が呂蒙率いる部隊に捉えられ斬首された時ですら、こちらには優しくしようと懸命に努めてくれていた。
劉備の優しさが辛かった。
彼の優しさと包容力に甘えているだけの自分が嫌だった。
同盟が破綻した今、敵国の君主の妹は憎むべき敵だ。
後宮に務める女官たちの中には、あからさまに憎悪の籠もった目を向けてくる者もいる。
それが当然だと思う。
むしろ、そうされた方が傷つきはするが当たり前の行為だとほっとする。
劉備は、当たり前のことをしているだけの女官たちを咎めてでも敵国の主の妹を庇う。
そんなことしないでと窘めても、私がそうしたいのだと言って聞かない。
兄への怒りに燃えているはずの彼のどこに妻を思いやる心が残っているのか気になり、無理をしているのではないかと不安にすらなる。
敵国にいて優しくされるのは、ただ幸せを噛み締めているだけではないのだ。
尚香は劉備に嫁いで初めて、故郷に連れて来られた敵国の姫君の複雑であろう心中を知ったような気がした。
「・・・あの、玄徳様・・・」
「おお、尚香殿。・・・すまない、また嫌な思いをさせてしまったようだ」
「ううん平気。・・・私の方こそごめんなさい・・・。・・・私がいると、みんなぴりぴりするわ・・・」
「尚香殿、自分を責めるのは良くない。尚香殿は尚香殿だ、皆それはわかっている」
「でも・・・!」
「尚香殿! ・・・私の前でまでそのように泣きそうな顔をしないでくれ・・・。どうすればいいのか私にはわからぬ・・・」
いい歳をした大人が困っている。
人生経験はこちらの倍以上あるだろうに、狼狽えている。
尚香は小さく笑みを浮かべると、劉備の手をそっと握った。
傷だらけだが、血の通ったとても温かくて大きな手だ。
本当は剣を振るうよりも土いじりをしている方が向いているだろうに、今また、兄や母国を討つために剣を振るおうとしている。
この戦争を止めることは誰にもできない。
あの諸葛亮や趙雲の諫言にすら耳を貸さず、自ら大軍を率い孫を攻め滅ぼすと宣言した劉備の行く手を遮る者はもはや何もない。
強大な曹魏を討つために同盟を結んだ国同士が争っても魏が利するだけだというのに、劉備は国の損得勘定ではなく劉玄徳というたまたま全軍を掌握する地位に就いた個人の感情により
国を揺るがしている。
相手が誰であれ、いや、相手が兄たちだからこそ尚香は劉備の供をすると決めていた。
蜀の人々から向けられる疑いと憎しみの目から逃げるのではなく、愛する劉備の妻だから彼の隣で戦うと決めていた。
劉備は、孫権の妹だからではなく孫尚香とという1人の女性だから愛してくれている。
その思いを知り、また自身も劉備を同盟国の君主だからではなく劉玄徳だから愛している以上、戦いに加わらない理由はなかった。
己の選択が自身と兄たち祖国の人々にどれだけの苦痛を与えるかわかっている。
しかし、劉備に止められても尚香は己が意志を曲げるつもりはなかった。
「尚香殿、無理はしないでくれ。私は、尚香殿が苦しむ姿を見たくない」
「あら、それは私だって同じよ。みんな、愛する人たちのために戦うわ。私もそうしてるだけ。
だから玄徳様も戦って。私が誰なんか忘れて、愛する人たちのために戦って。私はそんな玄徳様を守るから」
「逞しいな、尚香殿は」
乱世なのだ。
女だからといって守られ、家にいるだけではいられない。
尚香は劉備に笑みを見せると、音もなく背後に現れこちらに視線を向けてくる諸葛亮の気配に気付き顔を引き締めた。
有能な男だと思うが、だからこそ彼が何を考えているのかわからない。
周瑜や呂蒙とは違う頭の切れる男には、恐ろしさすら感じる。
尚香は四阿で穏やかな笑みを湛え相対する諸葛亮を見据え、用は何と尋ねていた。
「そう難しい顔をなさらないで下さい。私はあなたに二、三お尋ねしたいだけですから」
「・・・今の兄上たちの国がどうなっているのかなんて私は知らないわよ」
「ええ、それを調べるのは我らなので問題はありません。・・・かの国には、変わった出自の方がいらっしゃいますね?」
「みんなあちこちから来ているわ。江南の地は、戦が少なかったから」
「他国から来られた方ももちろんいますね」
「ええ。・・・それが何?」
「では単刀直入にお伺いしましょう。曹魏の姫君は、出陣すると思いますか?」
「・・・何を」
「どうして知っている、という顔をなさっておいでです」
本当に恐ろしい男だ。
誰も、国内でも出自を知る者がほとんどいないについてなぜ会ったこともない蜀の軍師が知っているのか意味がわからない。
と今回の戦いにいったいどんな関係性があるというのだ。
尚香の疑問を見透かしたように、諸葛亮はやはり穏やかに笑うと淡々と話し始めた。
「あなたもご存知の通り、今回の戦には利がありません。どちらが勝ったにせよ、真に喜ぶのは曹魏だけ。これはおわかりでしょう」
「・・・ええ。でも、それと彼女は関係ないでしょう?」
「ないものをあるようにするのが私たちの役目です。私たちの軍には、あの国に憎しみを抱いている者も多いので。・・・それで、姫君は出陣すると思われますか」
「・・・わからないわ、変わった子だから」
「そうですか」
「・・・ねえ、訊いてもいい?」
「何でしょう」
「もしも彼女が出陣したら、どうするの?」
「我が軍にとっても、また、呉軍にとっても真に倒すべき国の長に連なる者です。当然討ちます。そちらの方が双方にとって都合が良いのです」
「・・・違うわ・・・、そうじゃない・・・・・・」
そんなことをしたら、凌統はどうなる。
わからないと答えはしたが、は変わり者でそこそこ戦えるから必ず戦に出る。
凌統の制止を振り切ってでも出陣するはずだ。
が何のために戦場に赴くのかまではわからないが、は何かのために戦場に現れる。
来てはいけない。
今回は、たとえ凌統の傍にいたとしても諸葛亮の策略によりはかつてない危機に見舞われることになる。
来ないで、絶対に来ちゃ駄目、。
尚香の無言の叫びは、遥か東方で粛々と出陣の支度を整えるに届くことはなかった。
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