縁儚し恋せよ姫君 14
少しでも弱味を見せたら、事情を知る者に『だから敵国の姫君など生かしておくのではなかった』と陰口を叩かれるかもしれない。
自分に対しての中傷ならば、弱いのは事実だからすべて受け止めることができる。
しかし、そんな弱々しい姫君を生かしてくれるよう懇願した凌統まで後ろ指を指されるようなことにはなってほしくない。
隙を作ってはいけない。
孫呉の人々は皆明るくていい人たちばかりだが、それに甘えていてはいけない。
いつまでも陸遜の庇護の下ぬくぬくと暮らしていたくない。
誰かの何かではなくただの曹を見てほしくて、認めてもらいたかったから鍛錬を重ねた。
腕力に乏しく剣技を磨いただけでは満足に敵と渡り合えないと悟ったから、火計だけではなく目くらましと陽動のために煙玉を仕込んだりした。
赤壁の戦いで父の船団を燃やし尽くした黄蓋に教えを乞うたのは少々複雑な気分だったが、豪快な老将軍の豪快な対応に救われた。
優しくしてくれる人がいるから、尚更強くあらねばならないと思っていた。
思っていたのに現実はどうだ、今にも死にそうだ。
は自身の名を呼ぶ幻聴が聞こえる中、気力だけで馬超と対峙していた。
どこからともなく現れたように見える幻覚であろう真紅の戦袍に身を包んだ兵たちが、雄叫びを上げながら真横を突っ走り馬超軍に突撃している。
突然の援兵に驚いた馬超軍が浮き足立つ中、馬超が奮起を促すべく叫んでいる。
お前はまだ俺の仲間たちを奪うつもりなのか!
群がる兵を吹き飛ばした馬超が、もはや動く力も残っていないこちらに向かって突進してくる。
先程は援兵の出現で乗り切ったが、次はもうない。
今度こそ駄目だ、終わった。
観念して目を閉じたは、すぐ傍で感じた炎のような熱に馬超の襲来を覚悟した。
「だから行くなって言ったっての。ま、言うこと聞かないわがままも好きだけど」
さっさと片付けるからちょっと待ってて、。
本当はずっと聞きたくてたまらなかった声がようやく聞こえ、一度は閉じた目を再び開く。
本人は軽く言っているつもりなのだろうが、凌統の肩は大きく揺れている。
言うことも聞かず戦場に赴き、勝手に窮地に陥っている手のかかる可愛げのない女を助けるために駆けつけて来てくれたのだろうか。
こんな女ごときのために、はるばる前線から引き返してきてくれたのだろうか。
それはいけない。
武将にとって戦場での功績はなによりも大切なものだ。
赤壁でも合肥でも肝心なところで彼いわくの『どんな敵の首級よりも大切なもの』を得、あるいは取り返してきた凌統には今度こそまっとうな戦いをしてほしい。
は声を振り絞り、馬超と睨み合う凌統の背中に向かって呼びかけた。
「いけません公績殿。あなたにはもっと先になすべきことがおありのはず・・・」
「言うこと聞かないの言うことは聞かないよ」
「公せ「うるさい黙ってな」
強い口調でぴしゃりと言い放たれ、口を噤む。
凌統は劉備を追いかけていたはずだ。
彼や陸遜など本隊についていた他の将たちがここにいるということは、今劉備は誰が追っているのだ。
なぜここに本隊がいる。
は痛む腕を抑え周囲を見回し、耳を澄ませた。
遠くから微かに地面が揺れる音がする。
は凌統が舌打ちしたのに気付き、再び凌統へ視線を戻した。
凌統の肩越しに見えるおそらくはこちらよりも何倍も耳がいい馬超が、心なしか先程よりも人間味を取り戻したように思える。
荒れ狂っていた錦馬超が獣から人に戻った。
ほっとしたのも束の間、は馬超軍の背後に現れた満身創痍の将兵と、その先頭に立つ男を見て小さく声を上げた。
「劉備殿・・・?」
「やっこさんたち、何を思ったか急にこっちに向かったんだよ。まさかこいつらもを狙ってんじゃって思って先回りしたんだけど、当たってたみたいだね」
「・・・そう・・・でしょうか・・・?」
「?」
怪我を負っていながらもしっかりとした足取りで歩く劉備をはじっと見つめた。
命に代えて守ってくれる軍を離れ単身劉備が向かう先は凌統たち孫権軍の下でもこちらでもなく、地面に蹲ったまま泣いている尚香の元だ。
は劉備に近付こうとする凌統の服の裾をつかむと、振り返った彼にゆっくりと首を横に振った。
「・・・尚香殿、迎えに来た」
「・・・・・・っ」
「尚香殿、帰ろう」
「だ、駄目よ・・・っ! だって私・・・っ、兄様の妹だもん・・・!」
「いいや、尚香殿は私の、この劉玄徳の妻だ。1人にさせてしまってすまない。私を守ってくれてありがとう。こんな体たらくの夫だが、隣を歩いてはくれないかな?」
体を起こし劉備を見上げた尚香が、涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を更に歪ませ子どものように泣きじゃくる。
泣き叫びながら胸にしがみつく尚香を見下ろし背を撫でる劉備の顔も血と泥でまみれているが、口元は柔らかく緩み穏やかな瞳には慈しみの光が満ちている。
なぜだ劉備殿、お考え直し下さい殿!
口々に叫ぶ馬超と諸葛亮に、劉備は尚香を抱き寄せたままうるさいと一喝した。
英雄の言葉には力が宿る。
敵味方共にしんと静まり返った中、劉備は尚香に支えられながら立ち上がると諸葛亮を見つめた。
「私がなぜ軍を反転させたのかと訊いていたな。私は、もう大切な人を戦場に置き去りにしたくなかったからだ」
「しかし、戦争となった以上尚香殿との婚姻は終わったも同然。そのまま祖国に帰して差し上げるべきです」
「そうなのだろうか。私たちにそれを決める権限はない。これからどうしたいのか決めるのは尚香殿だ。尚香殿は私の妻だ。
私はたとえ、尚香殿が孫権ではなく曹操の娘であったとしても尚香殿を愛していた。それは、尚香殿が尚香殿だからだ」
「玄徳様・・・」
「尚香殿、私はこの戦いで多くのものを喪ってしまった。喪って初めて喪ったものの大きさを知った愚かな男だ。愛する妻の言うままに戦場に置き去りにし、1人で逃げ延びようともしていた。
それでも私は尚香殿といたいのだ」
劉備の思いを聞いた尚香が、泣きじゃくりながらこくこくと何度も頷く。
劉備は人を愛するのが上手い。
心の底から人を愛し、そしてその思いを口にすることができる強い男だ。
尚香は劉備にとっては紛れもなく妻だった。
やはり羨ましい。
は尚香を連れ陣に戻る劉備の背中を見送った。
視線に気付いたのか、不意に劉備がこちらを振り返る。
お前が曹操の娘か。
静かに問われ、は小さく頷いた。
「尚香殿と私を引き離したのはお前だな。お前のおかげで、尚香殿はお前以外の祖国の仲間を刃を交えずに済んだ」
「・・・・・・」
「生まれがどうであれ、今ここに生きて存在する。それがすべての理由だと私は思う。己が生きざまに誇りを持て。
愛する人々を守るために命を賭して戦ったお前は、曹操の血縁者ではなく紛れもなく侮りがたき孫権軍の将だった」
父が劉備を殺さず殺せず、国を築く主となるのを止められなかった理由がわかった気がする。
父は己が目指す武勇と、劉備の仁の力の戦いの行方を見たかったのかもしれない。
ああ見えて茶目っ気のある父だったから、きっとそうだったのだろう。
本隊に合流した劉備と尚香を加えた敗残の蜀軍が、怒りを治めた馬超軍を殿軍に粛々と撤退していく。
蜀軍を破りこそしたが、決死の抵抗によりそれなりの被害を受けた孫権軍に追撃の軍を出す余裕はない。
蜀軍の親衛隊は、周泰と互角かそれ以上の働きをするらしい。
「・・・戦いは終わりました。追撃の必要はありません、もはや蜀軍は、劉備は再起できない」
いつからいたのか、護衛に囲まれた小柄な青年が孫権軍の前に現れ高らかに宣言する。
終わった、やっと終わった。
終わったと聞いた途端に忘れていた痛みが全身を襲い、体中が熱くなる。
目の前の凌統の肩が安堵からか少し下がり、くるりと振り向かれる。
怖い顔をしている凌統がゆっくりと歩み寄るのをは黙って見上げた。
黙っているのは声を出すことすらできない痛みがあるからだ。
凌統は強張ったままの自身の頬をばちんと叩き無理やり和らげると、帰ろうと言ってわずかに笑みを浮かべた。
「帰ったら覚悟しとくことだね。にはこれからみーっちり俺からお小言説教いろいろ言わなきゃいけないから」
「・・・・・・」
「大体、こういう作戦ならそうだって言ってくれなきゃ俺にはわかんないっての。・・・俺、自分でもびっくりするくらいにのこと何も知らなくてさ」
「・・・・・・」
「もう何したっていいから、どんなわがまま言ってもいいからさ、・・・・・・・生きててくれ」
ゆっくりと先を歩く凌統の背中を追いかけたいのに、足が動かない。
待ってと言いたいのに言葉が出ない。
きっと凌統は、自分がいつものように2歩後ろを歩いていると思っているから後ろを見ないのだろう。
2歩後ろにはいない。
再会した場所から一歩も動けないのだ。
「にしても驚いたっての、まさかがあんな攻撃できるようになってたなんてありゃ黄蓋殿の「殿!?」・・・・・・?」
あまり多くを喋らないだが、いつも『はい』くらいは返してくれていた。
陸遜の悲鳴を聞いた瞬間背中が寒くなり、すぐ後ろにいるはずのを確認すべき初めて背後を顧みる。
2歩後ろではなく、20歩も30歩も後方で倒れ伏しぴくりとも動かないの回りは、彼女の青い戦袍からはおよそ広がるはずもない赤い地面に染まっていた。
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