縁儚し恋せよ姫君 13
父と馬一族の因縁はあまり知らない。
江南の地から馬一族たちの本拠地西涼は遥か遠く、そうでなくとも曹操軍の動向がつかみにくいのだから尚更、赤壁の戦い以降の父が各地で何をしているのかはほとんど知らない。
知る手段がなかったし、別段知りたいとも思わなかった。
かの一族との縁は、合肥の地で張遼と別れた時に完全に断ち切ったと思っていた。
戻れたかもしれない場所を自らの手で切り捨てたから、父がどこで何をしていようとはほとんど気にしたことはなかった。
かつて徐州の地では老若男女問わずすべてを殺した父だから、多少の残酷な行為をしていても驚くことはない。
そう語り陸遜からやはりあなたは曹操の娘ですねと苦笑されたこともあったが、本当に今のにとって祖国の所業はどうでもいいことだった。
だから、夷陵の地で父を憎む男に逆恨みされることが新鮮でもあった。
はぎらぎらと輝く鎧兜を身に纏った馬超をひたと見据え、騎馬隊の軍勢の前で剣を構えた。
「わたくしの名は曹。あなたが捜しておられる曹孟徳ではございません」
「お前はあれの娘と聞いた。娘も父もそう変わらん! 俺はお前の父に一族郎党皆殺された!」
「あ、俺は生きてるんだけどねえ。俺は馬岱、よろしくねー」
「よろしくなどせん! 曹操は父上や弟らをおびき出し謀殺した! そして俺と盟友韓遂殿の間を卑劣な策で裂き、俺たちから西涼を奪った!」
「・・・いかにも父上がなさるような策ですこと・・・」
「お前たちのせいで俺の一族は岱を除きすべて絶えた!」
「わたくしはとうに国と名を捨てた身。その怒りは私にではなく、曹魏にぶつけるのが道理かと」
血気盛んな甘寧よりも更に熱そうな男に道理を説いても無駄だろう。
馬超が叫べば叫ぶほど、こちらの熱は冷めていく。
馬超のわかりやすい説明でよくわかったが、どうやら曹一族と馬一族は根っこから相性が悪いらしい。
どれだけ言葉を交わしても相容れないのは、互いの武器が言葉と刃で違い鍔迫り合いすらできないからだ。
長坂で父の軍を雄叫びひとつで蹴散らしたあの張飛と互角の戦いを繰り広げたという馬超と、まともに戦えるわけがない。
張遼との戦いは、向こうがこちらを生け捕りにするつもりで殺意は持っていなかったから生き残ることができた。
しかし、今回の相手は憎悪と殺意の塊だ。
一瞬の隙で大して肉厚でもない我が身は馬超の槍で串刺しにされてしまうだろう。
本隊が劉備を追っている中、こちらに増援は期待できない。
そもそも増援は不要と言ったのはこちらだから来るはずがない。
と、背後にいる尚香が不安げに声を上げる。
尚香を孫権軍と戦わせないために退き話したのだが、まさかここまで巻き込んでしまうとは考えが浅はかだった。
は振り返ることなく尚香殿と答えた。
「尚香殿がおっしゃっておられたことは正しゅうございました。わたくしは所詮どこへ行こうと曹孟徳の娘でしかないのですね」
「無茶よ、あなたは馬超殿には勝てない」
「存じております。ただ、尚香殿はご存知ですか? 乱世を生きる奸雄の娘は、ただでは死なぬ存外しぶとい女だと」
どうせ死ぬのならば1人でも多くの兵を道連れにしてやる。
炎に包まれても張遼の猛攻を受けても死ななかった女だ、今回も運が良ければ腕一本持って行かれるくらいで済むかもしれない。
まずは敵の死角に入り込み、状況を読む必要がある。
は突進してきた馬超から飛び退り距離を開くと、迫る穂先をひらりとかわした。
「避けていても俺は倒せぬぞ!」
倒すつもりは毛頭ない。
倒してみようと間合いを詰めればたちどころに槍の餌食になってしまう。
馬超という今の蜀軍において趙雲と並び立つ猛将をここに引きつけておけば、本隊の障害と損失は少なくて済む。
殺されなければいい。
奴の殺戮対象をずっと自身に向けさせておけばいい。
とても恐ろしいが、そうすることが今の孫権軍にとっては挟撃を受けないという点では最善の策だ。
は馬上から次々に放たれる矢を剣で叩き落としながら、見失った馬超の姿を探した。
尚香の時とは相手の速さがまるで違う。
派手な鎧はどこへ消えたのだ。
かんと全身が痺れるような衝撃を受けた瞬間、の体が宙に浮く。
しまった、入り込まれた。
咄嗟に受け身を取りはしたが、木の幹に強かに叩きつけられ地面に伏せる。
頭上に感じた殺気と共に繰り出される槍は地面を転がり回避したが、体が痛くて起き上がろうにもすぐに体勢を整えられない。
仕方がない、一か八かとりあえず今は姿を隠さねば。
は懐に残っていた煙玉を地面に叩きつけると、馬超の猛攻が緩んだ隙に森に駆け込んだ。
「・・・っ」
たった一撃を受けただけで骨がどこか折れたような熱さを覚える。
利き腕は無事だが、そうでない方の腕を先程吹き飛ばされた時に傷めてしまったようだ。
剣を握ることはできるが、受け止めることはできない。
悔しい。
息を整えたは、みしみしと音を立て木々が倒される音を聞き背後を振り返った。
槍で倒したのか覇気で倒したのか定かでないが、身を潜めていた周囲の木々がごっそりと倒された。
姑息な手を使い逃亡を図るとは、やはりお前もあれの血を引くのだな。
体中に穴を開けんとばかりに繰り出される槍を払おうと振るった剣が、槍に弾かれ後方へ飛ぶ。
終わった。
はじりじりと後退しようとして、足に突き出された槍を避けきれず尻餅をついた。
「無様だな。どうだ、父を憎む男に殺される気分は」
「・・・あなたは敵将。・・・そうとしか、思いません・・・・・・」
「減らず口を叩くな!」
「い・・・っ」
いたぶって殺すつもりなのか、致命傷を与えずじわじわと追い込んでいく馬超の執拗な攻撃に苦悶の声を上げる。
どうせ殺すのならばどうしてひと思いに刺さず斬らずいつまでも生かすのだ。
やめて馬超殿、もうやめて!
馬超の一方的な攻撃をずっと見続けてきた尚香が間に割って入り、はいけませんと小さく叫んだ。
「もう彼女は戦えないわ。ねえ馬超殿、もういいでしょう?」
「そこを退け! この女の味方をするのであれば、いかに殿の奥方であろうと容赦せぬ!」
「は兄様の・・・、孫呉に住んでそこに大切な人もいる兄様の国の子なの! もう向こうとは何もないの! 馬超殿と曹操との間に何があったかなんてのもはきっと知らない!」
「おやめ下さい尚香殿・・・! ・・・これはわたくしの問題、尚香殿が出て来られるものではございません・・・!」
「そうだ! 余所者は引っ込んでろ!」
「きゃっ!!」
「尚香殿!」
なおも立ち塞がろうとする尚香を、馬超が邪険に振り払う。
気が張って力の加減が利かない馬鹿力に飛ばされた尚香が地面に倒れる。
主の妻に手を上げるなど許せるものではない。
余所者だからと片付けて何をしてもいいわけではない。
どうせこちらは曹孟徳の娘でなくても、倒すべき孫権軍の兵なので馬超には殺される。
しかし尚香は違う。
尚香は劉備の妻なのだ。
誰の子として生まれるかは、子どもは決められない。
選べないなりに一生懸命生きてきた。
生きたくないと思っても、生きてくれるだけでいいと言ってくれる人がいたから生きてこられた。
わたくしは曹操の娘ではない、曹だ。
渾身の力を振り絞り、よろよろと立ち上がる。
強がっていようと、足に力が入らないなりに震えを抑える。
「・・・わたくし自身が未だ、わたくしを余所者だと思っていたがゆえわたくしは独りなのでしょう・・・」
もしも帰陣できたら、もう少しだけ凌統に甘えてみようか。
ほんの少しだけ勇気を出して、甘えさせて下さいと言ってみようか。
突然言われて凌統は嫌だというかもしれない。
なんとなく、凌統は媚びた女は好きではなさそうだ。
「これでしまいにしてやる! 死ね!」
馬超の懐に入り込めなければ死ぬ。
突進する馬超を待ちかえるの耳と視界に、わああああと鳴り響く時の声を上がる火の手、そしてと叫ぶ懐かしい人々の声が飛び込んできた。
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