かたきどもの遠吠え 序
感情が豊かになった。結構結構。
だが、誰がそういうお節介焼いてくれたのかな?
武勲といえば聞こえはいいが、見た目はなかなかに酷くなってきた。
毎日欠かさず手入れはしているが、消せない傷はいくらでも増えてくる。
は愛用の額当てを見つめ静かに脇に置くと、布袋を覗き込んだ。
足りるかどうか微妙といったところか。
どうせ買うのであればきちんとした装備を揃えたいから妥協はできない。
しかし一介の兵士の身分でもらえる給料はお世辞にも多くはなく、よって資産運用には伏兵のそれと同じくらい細心の注意を払わなければならない。
次の支給日まではまだもう少し日数がある。
病はしない体だが、いざという時のためくらいの金は手元にあった方がいい。
は布袋を葛篭に仕舞うと、年季の入った相棒の額当てを再び手に取った。
要は額に攻撃を受けなければいいだけだ。
矢が迫る前に反転してしまえばいい。
だから、次の支給日まではまだまだ頑張ってもらわねば困る。
は丁寧な手つきで相棒を身に着けると、職場へ向かうべく宿舎を後にした。
仕方がないとはいえ、やはり敗戦処理は骨が折れる。
崩壊した軍に残された兵たちの再編、各地の守将たちの配置、失った資材の確認。
軍師ですからと胡坐をかいていては終わらないし、終わらせてくれない。
賈クは自軍に新たに組み込まれた兵たちの一覧に目を落とし、眉間に深い皺を寄せた。
目がくらくらしてきた。
「書簡じゃなくて実物を連れて来てほしいもんだが・・・」
「負傷した兵も中には含まれているそうです。癒える傷であれば良いのですが」
「期待のしようも今はまだってとこか。おっと気が利くじゃないか、さすが副官殿」
「その話はお断りしたはずですが」
「相変わらずつれない返事だねえ。副官になれば給金も増える、雑用も減る。それに俺の傍に長くいられて首も狙い放題ってのに」
「私は前線で戦う方が性に合っています。軍師殿の補佐など務まりません」
「そういうの抜きにして、あんたに傍にいてほしいからってことで頼んでもかい?」
執務室に茶を運びにやってきた可愛い部下にもう何度目かも忘れた口説き文句を仕掛けた賈クは、今日もいつもと同じように冷ややかな目で一瞥され再びの失敗を察した。
昔に比べるとは驚くほどに柔らかくなった。
命を狙われたこともないし、殺気を感じたこともない。
相変わらず前線で戦うのが好きなようだが、別に死にたがっているわけでもない。
むしろ楽進の下に就きたいと言い出されないだけほっとしてさえいる。
彼女の人事については、途方もなく上の偉い人たちが係わってくるのだ。
自覚のない親バカどもが大挙して押し寄せてきかねないのだ。
「・・・まあその話はまたするとして。って、どこかにお出かけかな?」
「この後は訓練です。もっと強くならなければ勝てませんから」
「精が出るねえ。たまには俺も相手させていただこうかな」
「そちらの書簡をすべて片付けてからであれば、いくらでも」
すいと指示された先には、確かにまだ山のように未決済の案件が残っている。
これは今日は無理かもしれないな、後で見に行くだけにしておくか。
賈クは今日の目標を決めると、妙に額当てを気にしながら去っていくの背を見送った。
特段愛想がいいわけではないが、とても優しくて面倒見が良くて、そして強い人がいる。
彼女がああなってしまった原因が彼女の上官になった時は大丈夫かと不安だったが、色々あって今は落ち着いたという。
良かったと思っている。
早くまた会いたいとも思っていた。
早く会って昔のように、甘えた言い方をすれば構ってほしかった。
父が亡くなった今はもう、そんな甘ったれたことは口にすらできなくなったのだが。
彼女に訊きたい内容もまるきり変わってしまったのだが。
夏侯覇は武器を手に現れた人物に、それでもぱあと顔を輝かせた。
「これはこれは・・・。お久し振りです、夏侯覇殿」
「・・・・・・え」
「え?」
「姉(ね)ぇーーーーーー!」
「えっ」
懐かしい人物がいるなあと思い、安易に近付いたのがまずかった。
は衆目の中全身を鎧で包んだ夏侯覇に抱きつかれ、重みに耐えきれず仰向けに倒れ込んだ。
頭を打たなかったのは不幸中の幸いだが、とにかく重い。
早く退いてほしい。
は首だけ動かし周りの兵たちに救いの目を向けたが、相手が亡き将軍の息子とあって誰一人動いてくれない。
薄情な奴らだ、潰れたらどうしてくれる。
はがんがんと伝わっているかどうかは定かではないが鎧を叩いた。
昔よりも甘えたになっているような気がする。
それでいいのか。
今のあなたはもうただの子どもではない。
偉大なる将軍の跡を継いで曹魏に立つ、そう言ってしまいそうになりはすんでのところで言葉を飲み込んだ。
人に言われずとも自分が一番よくわかっていることだ、赤の他人に過ぎないこちらが言うべきではない。
「夏侯覇殿、重い・・・」
「姉ぇ、俺、俺、どうすれば・・・・・・」
「私の上から退きましょう、まず」
「はい」
言えば素直に退いてくれた夏侯覇を改めて見つめる。
立派になりましたねと言うと、照れ臭そうに笑う。
相変わらず人懐こそうな顔をしている。
曹仁のような鎧を着て重くはないのだろうか、いや重いだろう。
は地面に放り投げられていた武器を手に取ると、どことなく暗い表情を浮かべている夏侯覇に何かと尋ねた。
「姉ぇ、前より元気そうですね」
「これ以上殿たちにご迷惑もかけていられませんから」
「笑ってくれるようになって・・・。・・・あー駄目だ、こんな幸せそうな姉ぇにはやっぱ訊けない」
「何をですか」
「復讐の心構えとか・・・」
「今聞きましたが」
「いやー俺こういう辛気臭いの苦手で・・・って俺がそうしてるのか・・・」
すみません忘れて下さいと頭を下げられても、忘れられるような軽い話ではない。
ほんの数年前まではこちらがまさに毎日その気分だったのだ。
今でこそやっと決別できたと思われる感情だが、先輩として夏侯覇が訊きたくなる気持ちはよくわかる。
父を亡くして間もないのだ。
殺したくて殺したくて仕方がないに決まっている。
は胡坐をかき髪を掻き毟っている夏侯覇を見つめた。
父の夏侯淵に似て人懐こい性格で、復讐のための鍛錬に明け暮れていたこちらにもおそらくは臆することなくまとわりついてきていた。
こちらも邪険にこそしなかったはずだが、正直、まさかここまで懐かれるとは思ってもみなかった。
いい所のお坊ちゃんには戦場を走り回る女が珍しかったのかもしれない。
そういえば夏侯淵様は夏侯惇様のことを惇兄ぃと呼んでいたな・・・。
自分もあの眼帯の鬼将軍と似た呼び方をされていると思うと妙な気分になる。
それほど厳しくしたつもりはないのだが、子どもにはきつい物言いをしていたのかもしれない。
「夏侯覇殿、良ければ私と一戦交えていただけませんか?」
「えっ、でもそれじゃ姉ぇに申し訳ないです!」
「あれこれ考えるよりも、体を動かした方が気が楽になる時もあるかと」
「じゃあお言葉に甘えて・・・。・・・怪我しないで下さいね!?」」
「・・・ええ」
随分と手加減してくれそうで、なんだかもやもやする。
は筆架叉を構えると、巨大な大剣を手にした夏侯覇へ斬りかかった。
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