かたきどもの遠吠え 2
夏侯覇と手合わせしたことはない。
そもそも、将軍たちと刃を交えたことはない。
あるのは賈クだけだが、あれは誰も知らないことになっている私闘なので数に入れないことにしている。
夏侯覇は男にしては小柄な体格に似合わずなかなかの力持ちらしい。
は夏侯覇の手にしていた大剣を目にして、じりと間合いを取った。
懐に入ればこちらに分があるように見えるが、相手の方が攻撃範囲が広く迂闊には近づけない。
彼がどの程度細やかな動きができるのかはわからないし、力量を知るためにも一度詰めた方が良さそうだ。
は筆架叉を逆手に構えると素早く背後に回り込んだ。
ぶんと耳の横で大剣が空を切る音が聞こえるが、あの太刀筋ならばそう気にする心配はなさそうだ。
は低く身を屈めると夏侯覇の足元を薙いだ。
痛い、やはり鎧が固い。
体勢を下から崩すのは無理がある。
は再び距離を取ると、間髪入れず襲いかかってきた夏侯覇の一閃に飛び退った。
加減を知らないのか間違えたのか、叩き落された後の地面がごっそりと抉られている。
まともに当たっていれば骨が断たれていた。
手合わせ、鍛練という意味を果たして彼は知っているのだろうか。
ちらと相手の顔を見たは、小さく舌打ちした。
戦っているうちに変な気にでも当てられたのか、目に殺気が宿っている。
戦場に慣れていないというわけでもなかろうに、これが復讐に燃える人間というのだろう。
昔の自分もああだったのだろうかと思うと恥ずかしいやら情けないから、空しくなってくる・・・と暢気に考えている場合ではなかった。
は立て続けに繰り出される連撃を右へ左へと避けながら、反撃の機会を窺っていた。
夏侯覇は間違いなく強い。
容易に近付けば真っ二つにされる。
しかし攻めねば勝てない。
攻撃は最大の防御と言うではないか。
は大剣が振り下ろされると同時に夏侯覇の懐へと滑り込んだ。
地面に筆架叉を突き立て胸元を両足で思いきり蹴り上げると、うっと唸った夏侯覇が仰け反る。
はくるりと宙で一回転しながら再び間合いを取ろうとして、容赦なく地面に叩きつけられた。
どこを取られた、どこを間違えたと行動を顧みようとするが、いかんせん背中と頭が痛くて思考が上手く回らない。
それどころか向こうは今度こそ止めを刺そうと剣を振り下ろしてくる。
咄嗟に愛剣を交差させ受け止めるが、鎧も加えた重みに腕が保たない。
まずい、殺される。額を割られる。
こんな事故で死ぬのはごめんだ。
「か・・・、夏侯覇・・・殿・・・・・・!」
「・・・・・・」
「んー、手合わせにしちゃあ随分と殺気立ってるねえ」
突然頭上の夏侯覇が横に吹き飛び、代わりににいいと笑った上官が映る。
立てるかねと言われながら差し出された手を取ることなく自力で立ち上がったは、すぐ近くの地面に伸びている夏侯覇の元へ慌てて駆け寄った。
兜を外し何度か呼びかけていると、ううんと間延びした声が聞こえ夏侯覇がゆっくりと目を開ける。
そして、かすり傷だらけのを目にして悲鳴を上げた。
「えっ、あ・・・、あ、俺・・・・・・っ、す、すみません姉ぇ! 俺、姉ぇになんてことを!」
「お気になさらず。それよりも夏侯覇殿こそ最近よく眠れていますか?」
「あ、いや、それが・・・・・・」
「夢に仇が出てきてうなされることもありましょう。お辛い気持ちが私も少しはわかります。けれども、休まねばあなたの刃は味方をも傷つけてしまいかねません」
「俺、やっぱまだガキなのかな。父さんが死んだってわかってて、仇を取らなきゃって思って稽古して、でも見境なくなっちまう」
「誰だってそうです。夏侯覇殿、今日は、いえ、明日もゆっくりと休まれて下さい。夏侯淵殿の無念も夏侯覇殿のお気持ちも殿はわかっておいでです。
必ずや雪辱の機会を与えてくれましょう」
ですから今はと夏侯覇に呼びかけるは、普段こちらに向けてくる視線や声よりも随分と柔らかい。
こういう言い方もできるのかと初めて知ったくらいに、賈クにとっては新鮮だった。
言われたとおり仕事を片付け可愛い部下の鍛錬に励む姿を見に行けば見知った仲が楽しく真剣勝負ではなく、まさにが殺される寸前だった。
何がどうなってああなってしまったのか考えるよりも先に行動したのは軍師としては失格だったが、上官として、男としては正しかったと思う。
助けられた張本人はこちらに見向きもしてこないが。
賈クは夏侯覇を見送ったの横に並ぶと、結構なお手並みでと声をかけた。
じろりと睨まれた気がする。
ほら、やはりこの目でしか見てくれない。
賈クは砂まみれのを頭のてっぺんからつま先まで見下ろし、はあとため息をついた。
「ちょーっとばかり血の気が多すぎる坊やだとは思わんかな」
「定軍山で父を亡くしたばかりなのです。何かに当たってしまうのも仕方ありません」
「大事な部下に手を上げられちゃ俺も黙っていられないんだが。俺を残して、よりもにもよって味方にやられるようなことがあっちゃ困るんでね」
「先程はありがとうございました。助けていただかなければ死ぬところでした」
「気にしなさんな。ところで・・・、あんたは今でも俺を夢に見ることはあるのかい?」
「いいえ、ただの一度も」
なぜという訝しげな表情で見上げてくるに、いやいいと返す。
仇ではなくなったと捉えていいのだろうか。
はもう完全に許してくれたと思っていいのだろうか。
俺の夢には時々あんたが出てくると今言ってしまえば、きっとは嫌な顔をする。
本意など気付くわけもなく、ますます冷ややかな目を向けてくる。
賈クは地面に散らばった額当ての残骸を拾い集めているの背中を見つめた。
一度でいいから、夏侯覇に向けていたような顔を見せてほしい。
夢にまで見たい賈クの願いがまたひとつ増えた。
命があって良かったと喜ぶべきだとわかっているが、悲しいものは悲しいし惜しいものは惜しい。
は夏侯覇との手合わせでものの見事に割れた額当てを自室の机に置き、守られるものがなくなった頭を抱えた。
いよいよ買わなければならない。
しかし金が足りない。
給金が入るまではもう少し日数があるが、戦いは待ってくれない。
方法はひとつ、稼ぐしかない。
夏侯覇にはぼこぼこにやられたが、武芸にはいささかの自信がある。
むしろ子どもの頃から戦場にいて、あれだけ口を酸っぱく言われても学問にも大して励まなかったこの身には武芸しかない。
は集会所へ向かうと、そこに掲げられている依頼案件を見上げた。
商隊護衛、賊討伐、要人警護と求められる仕事は意外と多い。
何を選ぼうかと思案していると、人影がに被さった。
「希望はありますか?」
「護衛は少し・・・。狼退治にしようかな・・・」
「いいですね、ではそれにしましょう」
「はい」
「場所もそう遠くはありませんし、終わったら夕飯でも」
「・・・楽進様、なぜ許昌に? 合肥にいたのでは?」
「戻ってきました。まあ、その話は明日にでもしましょう」
明日はいつどこに集合してとてきぱきと指示を出すさまは、やはり将軍のそれだ。
楽進が同行してくれるのはありがたいし非常に頼もしいが、兵卒ならばともかく兵を率いる立場の者を供につけるなど恐れ多くて敵わない。
はあわや流されそうになっていた自身に喝を入れると、兵舎を後にしようとする楽進を慌てて追いかけた。
「やはり駄目です、将軍の立場にあるような方が一介の兵の任務に同行など」
「しかしこちらにいる間の私は将軍らしい任務はしませんので、の供をしても問題はありません」
「そういうわけではなくて! もしも道中賊に襲われでもして楽進様が怪我でもしたらどうするんですか。私では責任が取れません」
「賊が出るような地ならば尚更を単身で行かせられません。安心して下さい、狼を倒しも守ってみせます!」
「ですから!」
駄目だ、何を言っても伝わらない。
は再び歩き始めた楽進の背中を諦めて見送ると、深々とため息をついた。
楽進との仲は悪くない。
むしろ幼い頃からよく遊び、くそがきがやりそうな所業はほぼやり尽くした相手だ。
厳しかった曹操や夏侯惇たちよりも若かった楽進や李典は、にとっては歳の離れた友人のような存在だった。
典韋と別れてからも何かと世話を焼いてくれてたこともよく知っている。
親離れする歳になり無愛想になり賈クとの確執があった時も、2人は見捨てはしなかった。
今はもう身分が変わってしまいおいそれと軽口は叩けなくなったが、それでも相変わらずこちらを気にかけてくれる楽進たちのことがは好きだった。
好きだからこそ面倒をかけたくないのだが、どうやらこの男はそのあたりを理解するつもりはないらしい。
は隣で悠々と馬を操る旧友をじとりと見つめた。
「突然許昌に戻って来るなんて、楽進だけですか?」
「いえ、李典殿もです。張遼殿は合肥に残られていますが」
「・・・そうですか」
「李典殿も誘った方が良かったとか」
「まさか。というか、私としては楽進がついてくることも想定外だったのに・・・」
「が任務に出るなんて珍しいと聞きました。何か入り用ですか」
「実は・・・」
恥ずかしいが、先日の夏侯覇との戦いを話して聞かせる。
思いきり押し倒され大剣を受けた時に、元々弱くなっていた額当てが壊れたこと。
新しい物を揃えようとしたが少しばかり懐が寂しく、狼退治に出たこと。
可愛がっていた子どもがあっという間に大きくなっていて驚きましたと言って締めくくると、楽進ははははと快活に笑った。
「笑いごとではありません! 賈ク様がいなければどうなっていたやら・・・」
「賈ク殿と上手くやれているようで安心しました」
「上手い下手はわかりませんが、近頃は副官にならないかとしつこいです」
「出世とはめでたい。今晩はお祝いですね」
「お断りしているんです。私は楽進みたいに先陣切って戦う方が性に合ってるの」
先陣という発言に表情を曇らせた楽進に、すぐさまそういう意味ではなくてと付け加える。
自らの行いのせいとはいえ、今も親しい人を困らせてしまうのは心苦しい。
楽進は隣で恐縮している様子のを見つめた。
昔から何事にも一生懸命に取り組む子だった。
出会ったばかりの頃は悪戯ばかりでほぼ毎日自身や李典とわいわい騒いでいたが、当たり前だがももう子どもではないと気付かされる。
典韋と別れたが武器を手に取った時止めることができなかったのは、今も深く心に残る傷のようなものだ。
曹操たちが止めても聞かなかったがこちらの言い分を聞いていたとは思えないが、それでも、やめろの一言も言えなかったのは悔しかった。
言える立場ではなかったのだ。
ばたついていて、兵でもなんでもないの動向を見守ってやることなどすっかり忘れていたのだ。
だからは賈クとの確執に一区切りついた今でも剣を握っている。
前線で戦いたいと言う。
それはおそらく、もう子どもではなくなった彼女には兵として生きるしか道はないと彼女自身が思っているからだ。
道は決してそれだけではないと思う。
しかし彼女がそう思っている間は友として、彼女の生きようとする道を守っていきたかった。
彼女が前線で戦いたいというのであれば彼女よりも先に突撃し伏兵の危険を排除し、狼退治に行くというのであれば露払いくらいはしたかった。
子どもの頃も大人になっても、楽進にとっては歳の離れた友人時々妹だった。
「」
「はい」
「2人でやれば狼退治などすぐに終わります。帰ったら一杯行きましょう」
「その前に私は額当てを買いたいです」
「そうでしたね」
合肥で会った時も少し怖い顔をしていたから不安だったけれど、もう大丈夫かな。
楽進は子どもの頃ほどではないが、着実に笑えるようになったの成長に口元を緩めた。
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