かたきどもの遠吠え 6
すべての軍を渡り歩いたわけではないが、賈クの軍はかなり融通の利く風通しのいい部署だと思う。
有事でなければ休日も3日に一度は与えられるし、急用があれば話も聞いてくれる。
今日の一件もおそらくは急用に当たるのだろう。
は深い溜息を吐くと、重い足取りで賈クの元へ向かっていた。
国の主たる曹操の命令は絶対だ。
顔を合わせるだけでいいとあの場では言ってくれたが、曹操自ら持ってきた縁談を断ることができるほどは世間知らずではない。
どこの馬の骨ともわからない貧しい出自の自身に政略も何もないだろうが、それでも、本来であればありつくことすらできなかったであろう縁談という珍事を無下にすることはできない。
曹操と程昱が見込んだ男なのだから、悪い男ではないだろう。
こちらが軍人として働いていることもわかった上で、いや、そんな女だからと申し入れてくれた奇特な善人なのだと思う。
大して愛嬌もない、家事もろくにできない女でも文句を言わない立派な男なのだろう。
軍の人々は皆いい奴ばかりだが、そこまで自身を気に入ってくれている存在にはまったく心当たりがなかった。
「失礼します。少しお話が」
「急に改まってどうした。ははぁん、さてはようやく俺の話を聞いてくれる気になったかい」
「いいえ。殿と程昱様が縁談を用意してくれました。それで、休みをずらしてほしいのです」
「・・・・・・え?」
冗談も世間話も通じない、用件しか言わない無駄のない優秀な部下だ。
単刀直入ずばりと隠さず話してくれたのは感心だ。
もう少し相手を慮るという配慮をしてくれてもいいとは思うが。
何て言った。
聞こえなかったと思ったのか、が顔色ひとつ変えずもう一度縁談ですと答える。
だから、どうしてこの子はそうやって傷つく一言を事もなげにいうのだろう。
相手は誰だ、どうして断らない、まさか受けるつもりか。
訊きたいことは山ほどあるが、まずは自分の心を鎮めなければ軍師失格だ。
たかが部下の縁談くらい何だ。
復讐と戦いだらけだった部下にようやく訪れるかもしれない春だ。
めでたいと一言ただそれだけ言えばいいのに、なぜ言えない。
いつの間に百面相をしていたのか、怪訝な表情を浮かべたが賈ク様と呼ぶ。
嫁に行ったら、こうして名を呼んでもらうこともなくなるのか。
それは寂しい。
ようやくまともに話ができるようになったのにいったいどこのどいつだ、俺と可愛い部下のひとときを終わらせようとしている不届き者は。
相手がわかるものなら、誰にも知られぬようこっそりと叩き潰してやる。
「相手が誰かわかってるのか?」
「知りません。ただ、相手は私のような戦うことしかできない者でもぜひにと見込んで下さった奇特な方だそうです」
「別に奇特なんかじゃないさ。はあ、しかしあんたが縁談。参ったね・・・」
「信じられないといった顔ですね。私も同感ですが」
賈クが訝しがるのももっともだと思う。
一度は殺そうとしてきた乱暴者が誰かの妻となるかもしれないのだ。
夫となるかもしれない者の身と心を案じるのも無理はないし、そもそも縁談なんて立場でもないだろうと心のどこかでは笑っているに違いない。
こちらとて断っていい話であれば、相手に会って身動きが取りにくくなる前にとっくに断っていた。
こんな思いをするのであれば、内容を告げなければ良かった。
私自身が妻になる気など毛頭ないのに、誰かが貰い受けるわけがないのだ。
は怒りと空しさとほんの少しの惨めさを噛み締めながら、尚も何か言いかけようとする賈クの元を後にした。
いつもどおりで良いと言われても、本当にいつも通りの様相で向かえるわけがない。
曹操や程昱は戦線を離れて久しいので覚えていないのだろうが、兵卒の『いつも』は砂だらけで色などほとんどないのだ。
ありのままの兵としての姿を気に入ってくれたらしいが、だからといってみすぼらしい姿でいいというわけではない。
は主たちの面目を潰さず、かつ浮かれすぎないよう整えた出で立ちで独りぽつんと大広間に佇んでいた。
すぐに来るのでしばし待てと言われそれなりに待っているが、未だ誰も部屋に入ってくる気配はない。
もしや案内される場所を相手が間違えたのではないかと不安に思ってしまうくらい、何かが起こる予感がしない。
兵士と付き合うなどやめたと思い直したのかもしれない。
それならそれで構わないが、直前に目が覚めてしまい振られたようで少し負けた気分になる。
恋愛は勝ち負けではないのだが、わかっていてもそう考えてしまうのはやはり、自身は誰かとそういう関係になることが向いていないからなのだろう。
「・・・・やっぱりお断りしよう・・・」
曹操たちはきっと怒るし悲しがるだろうが、こんな気分で会っても相手に失礼だ。
は立ち上がると、部屋を離れ程昱の執務室へと歩き始めた。
結局相手が誰かわからないままだった。
今度はきっともう縁談も来なくなるだろうし、そちらの方が気も楽だ。
今はともかく、一度は復讐に目が眩み同僚を殺そうとまでしてしまったこの身に人並み以上に幸せなど手に入らないのだ。
いや、今で充分幸せなのだ。
これ以上望むなど本来あってはならぬことなのだ。
「あれ、?」
「李典様?」
普段より幾分か落ち着いた髪型の男に背後から声をかけられ、振り返る。
どうしたんだと尋ねられ口ごもっていると、李典がにいと笑う。
今日の李典はいつにも増してご機嫌で、そんな彼に我が身の珍事を話すのは気が引けてしまう。
は促されるまま元いた部屋に戻ると、李典と相対して腰を下ろした。
「何か用があってこちらに?」
「ああ、もだろ」
「はい。でももう終わりそうです。・・・終わらせると言った方がいいのですが」
「終わらせる? まだ始まってもないのに?」
「そうなんだけど、相手がいないのできっとやっぱり私じゃなかったんだろうなと」
「いや、いるだろ」
「え?」
「だからの目の前に、あんたに会いたがってた相手ってのが」
殿たちから聞いてるんだろ、今日のこと。
遅くなって悪かったと屈託なく笑う目の前の友人としか認識していなかった縁談相手に、は無言で立ち上がった。
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