かたきどもの遠吠え 7
李典と出会ったのはもう随分と昔のことだ。
出会ったばかりの頃の彼はまだ今のような立派な将軍ではなく、誰かの下に就き日々励む兵だった。
面倒見がとても良くて、自分のような得体の知れない子ども相手にも全力で遊んでくれた歳の離れた兄のような男。
にとって李典とはそれ以上でもそれ以下でもない身内同然の大切な存在で、よもや夫となる人などとは今まで考えたこともなかった。
もちろん、今もそうは決して考えられないから困っている。
「おい、もしかして怒ってるのか」
「・・・・・・いいえ」
「じゃあ座れって。遅れたのは悪かった、俺も色々と心の準備があってな」
「私、帰ります」
「は? なんで、俺が来たのに」
「李典が来たからです!」
そう言い捨て本当に去ろうとするの腕を慌ててつかみ、どうにか留まらせる。
ここに至るまでに何か粗相をしただろうかと目まぐるしく頭を働かせるが、遅参したこと以外に非はないように思える。
ひょっとしては、本当はこちらを嫌っていたのだろうか。
俺だから帰るってじゃあ、他の奴ならまともに話を進めていたってことか?
それはあまりに酷い。
嫌っているのならば、具体的に何をどう嫌がっているのか教えてくれなければ改善のしようもない。
李典はあくまでも目を合わせようとしないの伏せた顔を覗き込むように腰を屈めた。
「あー・・・、話は殿から聞いてるんだろう? さすがに相手が俺だとは聞いてなかったみたいだけど」
「私、殿にこのお話はなかったことにしてもらうよう話してきます。すみません李典、私のせいで」
「なんでが謝るんだよ。俺はありがたかったんだぜ、殿たちが背中を押してくれて」
「殿に言われたら李典も断れるわけがないでしょう。私も断れなかったくちだけど、それでも私、実はちょっと浮かれてた。私みたいな子でも誰かの妻になれるのかもしれないって」
「ちょっと待った。落ち着け、あんたは根っこから何か勘違いしてるぜ。あんた、俺が嫌々ここに来たって思ってるだろ。そりゃ違うぜ」
「じゃあ李典は私のことが好きで、私を妻にしようと思ってここまで来たというの? どうして? ありえない」
無邪気に絶妙な質問をしていい幼少時代はもうとっくに終わったはずだ。
李典はようやく顔を上げまじまじとこちらを見上げてくるに、うっと言い淀んだ。
ここはどう考えても即答すべき展開だ。
ここでもし言葉を詰まらせようものなら、目の前の超絶鈍感な女はやはり今回の縁談は曹操たちによる無理強いだったとか勘違いしたまま事態を完結させてしまう。
それだけは絶対に避けなければならない。
好きに決まっている。愛しいと思っているに決まっている。
確かに初めこそは違った。
乱世ではよくいるとはいえ、不憫な境遇の子どもだなとしか見ていなかった。
典韋が戦死し誰もが望んでいなかった道を歩き始めたをついぞ止めることができなかったのは、そうすることで彼女に嫌われ避けられることを恐れていたからだ。
今思えば、なんと恐ろしいことをしていたのだろうと悔やんでも悔やみきれない。
彼女が死なないように守ればいいと、それでさも問題が解決したかのように振る舞っていただけなのだ。
好きだと思っている相手にやることではなかったと今ではよくわかっている。
長らく想っていたこちらよりも、親の仇に等しい賈クの方がよほど彼女を案じているような気分にさえなる。
何が副官だ、要はずっと傍に置いて彼女を喪うことがないよう見守りたいだけではないか。
もっともそれは、今までそれができた立場にいながらも成しえなかった自身が言えることではなかったが。
「・・・てん、李典、聞いていますか」
「あ、ああ、もちろん。あのさ、、俺は本当にのことがその、好きなんだ。あんたが戦いってんなら今更止めはしないし、考えだって尊重する。
だから今回の話だけはちゃんと考えてほしい」
「考えていいのですか? 考えたら、いや、やはり考えられません」
「そりゃそうだよな。でも俺は嫌がる奴に無理はさせたくないんだ。いやだったらすっぱりそう言ってくれた方が俺も気持ちがいい」
「じゃあ、い「今は言わないでくれよな? な? もう少しくらい考えてくれるかなさんよ?」
今答えても日を置いて答えても返事を変えるつもりはないのだが、言うなと言われたので大人しく黙っておくことにする。
それによくよく考えてみれば、即答をしてしまってはさすがに曹操や程昱にも顔向けしにくい。
逆らえない大人たちへの穏便な対処法は身をもって知っているつもりだ。
は言いたいことは言い終えたらしい李典と共に部屋を出ると、それぞれの持ち場へと並んで歩き始めた。
「いやーしかし驚かせてごめんな。急に出てきたのが俺でびっくりしたんだろ」
「そうですね」
「すぐにどうこうって訳でもないし、楽進にも内緒ってことで。ちなみに賈ク殿には?」
「縁談の話が来たとは話していますが」
話した当時の賈クは大層驚いていたが、相手が李典だったと伝えると今度は思いきり笑われそうだ。
こちらだってまさかないだろうと思っていた相手が夫候補だったのだ。
曹操や程昱がなぜ家族同然の李典を推してきたのか真意はわかりかねるが、李典はどうやら本気らしい。
それにもまた驚かされたが、やはり、今になって好きだの言われてもぴんとはこない。
好き嫌い云々ではなくこれまでもこれからもそういった感情を持つことがないであろう女を妻に迎えるのはきっと、李典にとっても本望ではあるまい。
この一件があった後も今までと変わらぬ関係でいられるのならばそれが一番だが、果たしてそれは叶う願いなのだろうか。
社交的な性格で頭の回転も早い李典ならば、自分のような無骨者ではなくもっと器量の良い娘を選り取り見取りできそうなものなのだが、男の趣味はよくわからない。
たちは兵の詰所へ戻ると、妙に騒々しい周囲の空気に顔を見合わせた。
「浮き足立っているというよりも、妙ですね」
「ああ、確かに。何だ?」
「あっ、姉ぇ・・・と李典殿!? どこにいたんですか、探してたんですよ!」
「夏侯覇殿こそ慌ててどうしたんです。それにこの騒がしさはいったい」
「当然ですって! は、樊城が、関羽に攻められてるんです!」
「「え?」」
いずれ動くとは読んでいたが、これほど早く兵を動かしてくるとは思わなかった。
関羽は焦っているかもしれないと呟いていた賈クは、こうなることも見越して兵の選別を急いでいたのかもしれない。
先見の明があったかもしれない賈クよりも、今は曹仁だ。
樊城を守るのは鉄壁の守備を誇る曹仁だが、あの軍神関羽の猛攻にいつまで保っていられるかと言えばおそらくそう長くは保たないだろう。
落ち込み泣いている時いつもさりげなく包み込み可愛がってくれ、植物を愛でる楽しさを教えてくれ、時には母や父のように厳しく叱ってくれていた曹仁が、
曹仁までもがいなくなってしまうかもしれない。
それは絶対に嫌だ。
は小刻みに震え始めた拳をぎゅうと握ると、李典と夏侯覇を置き去りにし賈クが待っているであろう彼の幕舎へと駆けだした。
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